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2024.11.11
日本画家・東山魁夷とは?風景画・東山ブルーなどの基礎知識7つを解説!
東山魁夷(ひがしやま かいい)は戦後に活躍した画家で、歌手の美空ひばりや大相撲の千代の富士に並ぶ国民的存在です。
名前は聞いたことがあるけど、どんな芸術家か詳しくはわからない…という方も多いのではないでしょうか。
風景画を得意とした東山魁夷は、芸術家として活躍するかたわら、著述家としても有名で川端康成とも親交があったそうです。
この記事では東山魁夷を「なんとなく聞いたことがある。すごい人らしい」と理解している方に向けて、7つの項目に分けて基本知識を紹介します!
目次
東山魁夷は「風景画の人」と覚えれば間違いない!
東山魁夷は多くの風景画を残したことで知られます。とくに「東山ブルー」と呼ばれる独特の色遣いが有名で、昭和の日本画界をより豊かに発展させました。(「東山ブルー」については、のちの章で詳しく紹介します。)
東山魁夷 (1908-1999)東山魁夷の肖像, Public domain, via Wikimedia Commons.
東山魁夷の生涯~日本画の道へ~
子供のころから絵の才能があった
東山魁夷は1908年7月8日、船具商を営む東山浩介と妻くにの次男として神奈川県横浜市に生まれました。魁夷は画号で、本名は新吉といいます。
3歳のときに一家で神戸に引っ越しました。魁夷は幼いころから絵を描くのが好きで、早くから才能が開花していたそうです。
絵の道に父が反対。なぜか「日本画ならOK」と許可される
昭和を代表する国民的画家の1人になった魁夷ですが、実は、父親に画家になることを反対されていました。
しかし、「日本画ならOK」という条件つきで許可されたため、東山魁夷は「日本画」を勉強して東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学しました。
当時の日本画は、線で描写することが主流の時代。そこに西洋絵画から「塗る」という手法が伝わり、日本絵画は変革期にありました。
原則的には日本画専攻という魁夷も、実は日本画と西洋画の両方の技法を学んでいます。
魁夷の絵を見た父親は、当時どう判断したのでしょうか? 気になりますね。
画号である「魁夷」を名乗ったのは、1931年に東京美術学校日本画科を卒業したあとです。研究科に進み、結城素明に師事した頃から名乗るようになりました。
卒業後、海外へ
東山魁夷は1933年、25歳のときに東京美術学校研究科を修了しました。
その年の8月、ヨーロッパへ向かいベルリン大学外国人語学部でドイツ語を学びながら、現地の美術館に通い見聞を広めました。
魁夷の絵には海外経験も活かされているんですね。
(参考) 東山魁夷の作品 - 緑響く、1982年
東山魁夷の生涯~苦労人、人生後半になって脚光が当たった~
東山魁夷は1947年の第3回日展で『残照』が特選を受賞したことで注目を集めましたが、このとき39歳でした。39歳という年齢は決して若くはありません。
そう考えると、東山魁夷は結構な苦労人でした。
Kaii Higashiyama, circa 1955, Public domain, via Wikimedia Commons.
戦争と重なった30代。経済的にも困難に
海外留学をするなど比較的恵まれていた20代までの画家キャリアとは異なり、30代からは東山魁夷を取り巻く環境がどんどん苦しくなっていったようです。
魁夷は1940年、32歳のときに画家・川崎小虎の長女すみと結婚。東北スケッチ旅行中に訪れた青森県種差海岸を題材にした「凪」を紀元二千六百年奉祝美術展に出品しました。
しかし、第二次世界対戦が勃発。
太平洋戦争中は母の看病や父の急死など家庭でも困難が続きました。1945年には魁夷自身も召集されましたが、熊本で終戦を迎えました。
終戦後再び筆をとったものの、1946年の第1回日展で落選。さらに弟が亡くなり経済的困難にも直面しました。東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想していました。
反面、「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、「少しずつでも這い上がって行く」決意が固まったそうです。
ピンチの時にはその人の本質が表れるといわれますが、「今がどん底だと思うと、これ以上は落ちないわけで気持ちが落ち着いた」「少しずつでも這い上がろう」というあたりに魁夷の芯の強さを感じますね。
39歳でプチ成功、40代で評価を固めた
1947年の第3回日展で『残照』が特選を受賞し、風景画家としての道を進む決意を固めました。この作品は日本政府に買い上げられ、彼の評判はさらに高まります。
1950年には『道』を発表。簡潔な構図で新たな表現を追求したこの作品は画壇で高く評価され、魁夷の地位を確立しました。
1956年には第11回日展に出品した『光昏』により日本芸術院賞を受賞。1959年には新日展に祖父の故郷を描いた『暮潮』を発表するなど、風景画家として圧倒的な地位を確立しました。
「39歳で日展で特選を受賞する前は、何度も落選した」と聞くと、皆さんはどう思うでしょうか?憧れの仕事、スポーツ、芸能の道など「目指すもの」を諦めず実現させた魁夷はやはりすごいと思います。
「青の画家」東山ブルーが有名
東山魁夷といえば、緑がかった青色である「東山ブルー」が特に有名です。
18歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学したとき夏に長野旅行で見た青々とした山が影響しているといわれますが、こればかりは本人に聞かないとわからないですね。
“日本画家”と呼ばれる東山魁夷ですが、一見すると彼の絵の色彩表現は西洋画のように思えます。
しかし、題材となった風景がもつ「静謐の雰囲気」「神々しさ」は、日本画らしい要素ですね。
魁夷は、日本画と西洋画の両方を学んでおり、両者の影響を受けて自身の作風を確率していきました。
アート初心者の方は「東山魁夷の絵から西洋画の要素と日本画の要素を見つけ出す」「東山ブルーとは青なのか? 緑なのか? を考える」などの楽しみ方をしても良いかもしれません。
東山魁夷の代表作
東山魁夷の代表作を紹介します。
『道』
1950年に発表された東山魁夷の代表作『道』は、青森県八戸市にある県道1号八戸階上線がモデルで、一本の道が淡い緑と白を基調に遠くまでまっすぐに続いています。
彼が経験した絶望や未来への希望が複雑な色合いとともに象徴的に描かれ、旅と探求の象徴としても表現されているのでしょう。
(参考) 東山魁夷の作品 - 道、1950年
『緑響く』
1982年に発表された東山魁夷の『白い馬』シリーズの一つ『緑響く』は、長野県茅野市の御射鹿池をモデルに、自然の豊かな緑の中を白馬が進む姿を繊細に描いた作品です。
湖面に反射する白馬と、静寂の中に生命の営みを感じさせる風景。魁夷の自然への深い愛情と独特の色彩感覚が存分に発揮されていますね。
魁夷が愛したモーツァルトの旋律もインスピレーションとなり、幻想的な調和を醸し出しています。
(参考) 東山魁夷の作品 - 緑響く、1982年
『秋翳』
1958年に制作された東山魁夷の「秋翳」は、紅葉した三角形の山と薄曇りの空のみを大きなキャンバスに描いた風景画で、秋の深まりを感じさせる落ち着いた色使いが特徴です。
シンプルな構図ながら、紅葉の樹々の複雑な色合いや、落葉が積もる静かな森の情景が丁寧に描かれ、季節の移り変わりが美しく表現されています。
日本古来の技法を継承しつつ、新たな日本画を追求する魁夷の意欲が感じられる作品です。
(参考) 東山魁夷の作品 - 秋翳、1958年
『白馬の森』
白馬シリーズを代表する作品で、1972年に制作されました。白い馬が森の中に佇む様子には、言葉に表しにくい幻想的な雰囲気を感じます。
一面の青い背景と白い馬のコントラストが美しく、おのずと視線が馬に吸い寄せられますね。
(参考) 東山魁夷の作品 - 白馬の森、1972年
東山魁夷の画風・画法~「ひたすら風景画」が心地よい~
人を徹底的に排除したら、穏やかさが生まれた
東山魁夷は人物を描かずに風景のみを描くことで、観る人が心情を自然に重ねられる穏やかで神秘的な絵を生み出しました。
戦争中に見た田園風景の美しさが彼に強く響き、自然の中にある「生命」への感謝と畏敬を作品に込めたといわれます。
日本画の新しい可能性を開いた
伝統的な技法と革新を融合したその画風は、日本画に新たな可能性をもたらしました。
当時の日本画は線での描写が主体でしたが、魁夷は西洋絵画から伝わった「塗る」という手法を融合させました。
『緑響く』などの作品に見られる人を感じさせない独特な構成は、日本の自然美と静寂を象徴しています。
現代のアーティストにも影響
東山魁夷の色彩や構図は現代アーティストにも大きな影響を与えました。
繊細な観察や空間表現は多くの風景画家や写真家に取り入れられ、芸術表現の新たな道を開いています。
「あ、この作品はもしかしたら東山魁夷の影響があるのかも!?」と予想しながら鑑賞するのも一つの楽しみ方かもしれません。
(参考) 東山魁夷の作品 -第二期唐招提寺障壁画・黄山雨過 、19年
東山魁夷の評価~皇居や唐招提寺の壁画を描くほどすごい~
「東山魁夷でないと」と依頼された
人気画家、有名な画家といわれる芸術家は多くいますが、「皇居の壁画」「唐招提寺 (奈良県) の障壁画」を描くほどの人物となると、ほんの数名ほどに限られます。
皇居の壁画は、宮内庁から依頼を受けました。
1960年 (52歳) に東宮御所の壁画『日月四季図』を、1968年 (60歳) には新宮殿壁画『朝明けの潮』を制作。1970年代には奈良・唐招提寺御影堂障壁画『黄山暁雲』を約10年かけて完成させました。
奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の唐招提寺。金堂(国宝), Public domain, via Wikimedia Commons.
墨の濃淡を使い分け、千変万化する山の姿を鮮やかに描き出したこの絵により、国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになりました。60歳を超えてますます活躍する様子は、さすがとしか言いようがないですね。
唐招提寺の壁画はその後も制作が続けられ、1980年 (72歳) に第2期障壁画の三題『黄山暁雲』『揚州薫風』『桂林月宵』が完成しました。1981年 (73歳) には鑑真和上像厨子絵『瑞光』が完成し、活躍はまだまだ続きます。
画壇での存在も大きくなり、勲章も受賞
東山魁夷は1956年に日本芸術院賞を受賞し、1965年には日本芸術院会員と日展理事になりました。
1969年には文化勲章を受章、合わせて文化功労者に選出。
1974年には理事長に就任し、「画壇のトップ」ともいえる地位に就きました。彼の功績は、死後、従三位、勲一等瑞宝章が贈られるほど評価されたのです。
これ以上落ちようがない「どん底」であった30代後半の時期と比べると、人生後半での巻き返しは想像を遥かに超えるものでした。
東山魁夷の作品が見られる場所
東山魁夷の作品は、いくつかの美術館にまとまっています。
下の美術館で見ることができます。
・長野県立美術館内、東山魁夷館
・兵庫県立美術館
・香川県立東山魁夷せとうち美術館
・市川市東山魁夷記念館 (千葉県)
・東山魁夷 心の旅路館 (岐阜県中津川市)
主な作品は次の美術館に所蔵されています。
『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
『青響』(1960年、東京国立近代美術館収蔵)
『白夜』(1963年、北澤美術館収蔵)
『曙』(1968年、北澤美術館収蔵)
『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
『花明り』(1968年、個人所蔵)
『白馬の森』(1972年、長野県立美術館収蔵)
『緑響く』(1972年、長野県立美術館収蔵)
『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)
『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
展覧会情報
東山魁夷の作品を集めた展覧会の情報をまとめました。
東山魁夷と風景画の旅 日本から世界へ
2025年2月1日(土)~2025年 4月13日(日)、福田美術館 (京都府京都市)
引用元:東山魁夷と風景画の旅 公式サイト
信州から考える 絵画表現の50年(仮称)
2025年2月1日(土)~2025年4月6日(日)、長野県立美術館
まとめ
「東山ブルー」で知られる東山魁夷は、30代後半になってようやく画家として注目を集めた「遅咲き型」でした。
魁夷の人生を知らなくても作品は十分に楽しめますが、「人物がいない風景画を、なぜ描くことになったのか?」「東山ブルーはどのような背景で誕生したのか?」などを知ると、より深く作品を味わえます。
お近くの美術館や展覧会に足を運び、東山魁夷の世界に浸ってくださいね。
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セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。
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