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STUDY

2021.7.29

マン・レイの芸術生活を支えた3人の「ミューズ」ってどんな女性?

芸術家はおのれの発想力と戦い、ちょいちょい弱音を吐きつつ作品をつくる繊細な生き物です。「あれ? 俺の才能枯れた?」と不安になっちゃうこともあります。

そんなセンシティブな芸術家たちに「発想の原点」や「情熱」「精神的落ち着き」などなどをもたらすのが「ミューズ」といわれる女性。

今回はミューズに支えられた芸術家のひとり、マン・レイについて紹介します。

女性Photo by Ina Garbé on Unsplash (写真はイメージ)

マン・レイは描画、造形、写真まで手掛けるマルチなアーティスト

マン・レイは仕立て屋とお針子さんの両親のもと、アメリカに生まれました。本名はエマニュエル・ラドニツキー。名前の通りロシア系ユダヤ人で当時のアメリカでは迫害の対象でした。

なので姓のラドニツキーを改めて「レイ」とし、エマニュエルの愛称「マン」をとってマン・レイと名乗ることになります。

もともと建築家志望でした。二十代のころにアメリカで図案を描きながらドローイングをしていた時期があります。

そんな1910年代、スイス・チューリッヒを起点に世界中でブームになったのが「ダダイズム」です。

ざっくりいうと1800年代後半の産業革命以降、みんなが「お金稼ぐぞー!」と考えるようになった結果、勃発した第一次世界大戦に反対した運動です。ダダイストは「合理主義反対!ビジネス思考反対!」と、もはや作品を考える意識を破壊したうえで創作をします。

例えば「映える写真を撮っていいねを集めたい」という思考を捨てて「適当にポケットの中にスマホ入れてシャッターを切る」みたいなのがダダイズムの考えです。ダダイズムは1940年代になるとシュルレアリスムという運動に引き継がれることになります。

マン・レイもまた、合理主義反対派として前衛的な造形などをつくるようになりました。アイロンにトゲをつけたり、ミシンを布で覆ったりして表現をしています。ここで無意識的に親の商売道具を選んだのが、おもしろポイントです。


マン・レイがフランスで出会った3人のミューズ

さて、そんなマン・レイは同じダダイストのマルセル・デュシャン(展示会に小便器出したことで有名な人)に誘われて、1921年にフランス・パリに渡ります。

ドローイング、造形などでキャリアを踏み、ダダイズムブームで人気を博したマン・レイが次に選んだ表現は「写真」。もともと自分の作品を撮影していた彼は、より芸術性の高い写真を撮るために、3人のミューズとともに写真家としてのキャリアを積み重ねていきます(しっかり恋愛関係に発展しながら)。


若手芸術家の憧れ・モンパルナスのキキ

パリに着いてすぐ出会ったのが、画家たちのモデル 兼 歌手でもあったアリス・プラン(通称・モンパルナスのキキ)です。モイズ・キスリングや藤田嗣治など、パリ・モンパルナスの画家たちのミューズでした。彼女を描くと、どれも傑作になる。これぞミューズという人でした。

プランとマン・レイは恋愛関係になり、1920年代の多くを共に過ごします。『アングルのバイオリン』『Noire et Blanche』などの代表作は彼女を撮ったものです。

ただバーの歌手をしていたプランはとにかくド派手な振る舞いが好きな人。しかもモンパルナスに住む芸術家からモテモテなもんだから、マン・レイは完全に嫉妬の鬼と化して別れを決断しちゃいます。


アシスタントから恋人に発展したリー・ミラー

1929年、マン・レイがプランに嫉妬しまくっていた39歳のとき、彼の隣で写真のアシスタントをしていたのがリー・ミラーです。

マン・レイは彼女と付き合い、共同作業で写真技術を発展させるんです。なかでも大きな発明はソラリゼーション。現像をする際に光をガッツリ当てることで写真の白黒を反転させる手法です。

これはマン・レイが暗室で現像作業をしている際に「あ、やべ。ごめんやっちまったわ」とミラーが間違って扉を開けてしまったことで、偶然的に生まれました。

普通だったら「やり直すか〜」となるところですが、ダダイズム・シュルレアリスム的な精神があるマン・レイは「発明だ!」とこの作品を採用することにします。ソラリゼーションは、今もなお引き継がれている手法です。

結局、1933年にミラーは写真家として自立すべく渡米。その後「20世紀を代表する女流写真家のひとり」とまでいわれるようになります。


マン・レイの晩年までを共に過ごしたジュリエット・ブラウナー

その後、1940年に太平洋戦争が勃発し、危険を回避するためにマン・レイは帰米します。そこでモデルを務めたのがジュリエット・ブラウナー。マン・レイはロスについた翌日にダンサーでもあった彼女と踊るなど、まさかの距離感で親密になり、1946年に結婚します。

マン・レイ自身が「知り合ってからずっと彼女はミューズだった」というほど魅力ある女性でした。

すでにアーティストの写真を撮りまくり、商業カメラマンとして成功していたマン・レイはこの辺りから撮影依頼を断るようになります。しかしブラウナーの写真だけは撮り続けていたというから、その愛の深さが伝わります。


『マン・レイと女性たち』が渋谷・Bunkamuraで開催中

彼が写真家として世界的に有名になった背景には確実にミューズたちがいました。彼女たちが作品に花を添え、そして「マン・レイのミューズだ」という事実がまた彼女たちをスターダムに押し上げてきたわけです。

さてそんな、マン・レイとミューズを特集した展覧会『マン・レイと女性たち』が、7月13日から渋谷のBunkamura ミュージアムで開催されています。

今回ご紹介した3人に女性シュルレアリストのメレット・オッペンハイムを加えた4名とマン・レイとの関わりを観られるイベントです。

ミューズという言葉の意味を理解するうえでも楽しめると思いますので、気になる方はぜひ参加してみてください。

【写真1枚】マン・レイの芸術生活を支えた3人の「ミューズ」ってどんな女性? を詳しく見る
ジュウ・ショ

ジュウ・ショ

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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

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