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STUDY

2022.6.16

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~

西洋美術が分かると、休日の美術館でのひとときはもっと豊かになります。しかし、西洋美術史の解説本は何やら専門的で難しい……。そこでこの連載では、はじめての方でも分かりやすいように、おしゃべり感覚で西洋美術史をお届けしています。

▼前回の記事
西洋美術史を流れで学ぶ(第27回)~シュルレアリスム編~
https://irohani.art/study/7784/

今回は第一次世界大戦終戦後から第二次世界大戦期にかけてのドイツのアートシーンについてご紹介。現在のデザインのベースである「モダンデザイン」を発明した学校・バウハウスや、ヒトラーが弾圧したアート作品について紹介しましょう。

バウハウスとは「モダンデザイン」の学校

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~デッサウ移転後に建設されたバウハウス校舎 Mewes, Public domain, via Wikimedia Commons

「戦争が起きるとテクノロジーが進化する」というのは本当のことで、人の闘争本能ってのは本当に恐ろしいものです……と、急になんか田原総一朗みたいな社会派コメントからスタートしましたが、いや本当に戦争とテクノロジーとはリンクしています。特に顕著だったのが「第一次世界大戦」でした。この戦争では毒ガス、戦車、飛行機、潜水艦といった兵器が“ 発明”されています。

この発明の背景にあったのが第二次産業革命です。第24回の記事 でお伝えした通り、1800年代の後半に第二次産業革命が起きてから、世の中は「機械による大量生産」が主流になりました。超便利なんですよ。大量生産によってモノの値段も下がるし、良いことのほうが多いんですけど、まだ大量生産自体が発展途上なんで、食器や日用品などは粗悪品も増えてしまったんですね。

この「工業製品の劣化」に対して、アートシーンはずっとカウンターをかましていました。「じゃあ、手作業で良質なものをつくったほうがいいやないか!」とキレていたんですね。

ただ、便利なので、機械による大量生産は、第一次世界大戦が起こった1910年代にはもう「普通」になっていました。そのときには「美術学校」と「工芸学校」の2つが別々に誕生していて「アートは芸術家、工芸品は職人」と明確に分離していたんですね。

今でも「絵画を描くのは芸術家で、家を建てるのは大工さん」と分離していると思います。画家っていうと何かおしゃれでアーティスティックだけど、大工さんっていうとどこか昔ながらで保守的な感じ……。この価値観が当時すでに生まれていたわけです。

第一次世界大戦が終わったあとの1919年、ドイツ帝国が崩壊して新しく「ヴァイマル共和国」が誕生します。そんな「新生ドイツとして、いちからがんばろうぜ」と意気込んでいたヴァイマル共和国で誕生した建築学校が「バウハウス」です。

バウハウスが目指したのは「芸術家と大工の垣根をなくした教育」でした。初代校長であり創設者の建築家、ヴァルター・グロピウスは「芸術家も大工も『良質なものをつくる』って意味では一緒でしょうが」と言っています。

その言葉通り、バウハウスでは講師陣に前衛表現をした芸術家を招きました。

バウハウスの講師陣

バウハウスの講師として、特に有名なのがワシリー・カンディンスキーと、パウル・クレーでしょう。クレーは「天使の絵」でご存じの方も多いでしょう。日本では可愛らしい天使が書籍として出版されており、人気が高い画家です。

2人とも初期の「抽象絵画」を担った画家でした。特にカンディンスキーは抽象絵画の祖といわれており、以下のような絵を描いています。

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~ ワシリー・カンディンスキー『Transverse Line - 横線:』, Public domain, via Wikimedia Commons

抽象絵画の背景にあるのは第24回で紹介した「キュビスム」です。この時期から絵画は具象から抽象的な表現に変わっていきました。「リンゴ」を描くとしたら、昔は目に見えるリアルなリンゴを写実的に描いていましたが、ピカソの時代から「リンゴ」というモチーフそのものの本質を写すために抽象的に描かれるようになった。カンディンスキーはこの「抽象化」を極限まで極めたんですね。

またこの1920年代は「ドイツ表現主義」が流行った時代です。これは絵画だけでなく映画とか演劇の分野にも波及したんですけど、とにかく「誰かの目を気にすることなく、自分の主観だけと向き合って作品をつくる」という運動でした。

抽象絵画はまさしく「誰の目も気にしない」の頂点だといえます。シンプルに「誰かに感動を届ける」とか「資料として残す」などの考えを完全に撤廃していますよね。そもそも何を描いているのか分からない。でも自分の主観は反映されているんですね。

クレーもまたカンディンスキーの抽象絵画に共感した画家でした。カンディンスキーやクレーは「青騎士(ブラウエ・ライター)」という年刊紙を発行したので、グループ名として「青騎士」といわれます。むちゃくちゃ前衛的な画家集団です。

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~パウル・クレー『ホフマンへの話』, Public domain, via Wikimedia Commons

バウハウスではこの2名をはじめ、ガッツリ前衛芸術をしている芸術家を講師として呼んだんですね。

ヒトラーによって弾圧されるバウハウス

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~1933年5月10日のベルリンでの焚書 Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

そんなバウハウスは1919年に設立され、1933年まで教育を続けます。なぜ1933年に閉校してしまったのかというと、あの悪名高いヒトラーの弾圧を受けたからです。

この時代のドイツのアートシーンにはヒトラーが大きく関わってきます。彼はナチスの党首として、またドイツの首相として人種差別と弾圧を加えた独裁者です。優生学をガチで信じており、北方人種の血を守り有色人種やユダヤ系を排除することでドイツはもっといい国になると思っていました。文字にするのもおぞましい思想だったわけです。

そんなヒトラーは、実は画家志望だった過去があります。しかし18歳で美大受験に失敗して断念しているんですね。ヒトラーの人生のなかでも最大の挫折といっていい暗黒の時代でした。

そんなヒトラーは大人になり権力を持つようになってから、前衛的な芸術を否定しまくります。キュビスム、ダダイズム、ドイツ表現主義、抽象絵画などなど「新しい表現」はすべて弾圧されました。

なぜかというと「頭が悪くなるから」です。もうなんか、お母さんが子どもが下半身を露出してふざけるのを止めたくて「もうクレヨンしんちゃんは見ちゃいけません!」と叱る感覚と一緒です。

確かにこれらの様式はロジカルでないし、必ずしも美しくはありません。もちろん自己の内面と向き合って表現をしているからこそ、こうした前衛的な表現になるんですけど、それをヒトラー(というかナチス)は理解できなかったんですね。ただ単純に「ドイツの芸術は退廃してしまった」と嘆いたわけです。それで彼は作品群に「退廃芸術」とレッテルを貼り、作家たちを弾圧しようとします。

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~1938年2月27日の日曜の午後、「ドイツ芸術の家」で開催された退廃芸術展を観に訪れたゲッベルス宣伝相 Bundesarchiv, Bild 183-H02648 / Unknown authorUnknown author / CC BY-SA 3.0 DE, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

1933年には「退廃芸術展」を開催し、112人・約600点の作品を展覧しました。「この展覧会はドイツ国民の税金で開催しています」というチラシを貼ることで、ドイツの国民は「こんなヤバい作品のために、わしらの税金使われたんかい!」とガチギレしたそうです。ナチスの作戦は大成功するわけですね。

バウハウスは1925年に一度ナチスから弾圧され、ヴァイマルからデッサウに移転します。しかしデッサウでも弾圧され、1933年に解散となってしまいました。

今でも引き継がれるバウハウスのデザイン

西洋美術史を流れで学ぶ(第28回)~バウハウスとヒトラーによる弾圧編~Charlotte Nordahl from Dresden, Germany, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons

今回は1920年代~30年代のドイツのアートシーンについて紹介しました。先述したように初期のバウハウスは「芸術と工芸の融合」を目指していました。それまでの建築物は装飾がゴテゴテに施されたきらびやかなものだった。しかしバウハウスの建築は一点、無駄がない合理的でスタイリッシュなデザインとなっています。バウハウスの合い言葉は「少ないことは豊かなこと」でした。

ヴァイマルからデッサウに移転してから3年後の1928年には、校長が代わったこともあり、より合理的で無駄のないデザインを追究していくことになります。表現主義的な側面が薄くなったことで多くの国民から愛されるようになったのがこの時期です。

このデザインは今では「モダンデザイン」といわれ、あらゆるデザインの「基礎」として使われています。例えばIKEAの家具はバウハウスのデザインがベースにあるとされています。またiPhoneのデザインにもバウハウスのモダンデザインが感じられます。

終わってみればたった14年しか続かなかった学校なのですが、その「デザイン革命」は令和の今でも「基礎」として生き続けているんですね。


次回は1945年、第二次世界大戦終戦後の現代アートについてお伝えしましょう。現代アートはどのように指示され、進化を遂げてきたのでしょうか。

▼次回記事はこちら!西洋美術史を流れで学ぶ(第29回)~現代アート編~
https://irohani.art/study/8137/

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ジュウ・ショ

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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

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