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2024.8.15
アンリ・マティスとは|生涯とともに、ジャズ、切り絵などの代表作、何がすごいのかを解説
目次
「この画家の何がすごいか」は、Webメディア、書籍が解説してくれている。
しかし、難しく、高尚に語られがちで「結局何がすごいのか」について分からないことも多々あるだろう。
そこでこの連載では、西洋画家について、あえてフランクに面白おかしく紹介していく。
今回は"色彩の魔術師"とも呼ばれるフォービズムの巨匠、アンリ・マティスをピックアップする。2023年の「マティス展(東京都美術館)」、2024年の「マティス 自由なフォルム(国立新美術館)」は大成功のうちに幕を閉じ、あらためて注目度が高まっている。
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1900年代初頭を代表する画家であり、ピカソやマルセル・デュシャンとともに、20世紀の三大巨匠といわれることもある。
そんなマティスはいったいなぜここまで評価されているのか。その理由をわかりやすく紹介していこう。
マティスの生涯 〜順風満帆ルートから21歳で画家を決意〜
アンリ・マティスは1869年の大晦日にフランス・ノール県、ル・カトー=カンブレジの裕福な家庭に生まれた。
マティスの実家のファサードPublic domain, via Wikimedia Commons.
父は穀物商人、母は「アマチュアの画家」だ。こう書くと「小さいころから絵を描き始めたのだろう」と思うかもしれない。しかし、マティスはどちらかというと父の教えを守る優等生で、弁護士を志すようになる。
意外かもしれないが、マティスは幼少期から(日本でいう)中学・高校とあまり絵に親しんでこなかった。21歳まで熱心に弁護士試験の勉強をして、無事に弁護士事務所に就職するのだ。
めちゃめちゃ勝ち組ルートを進むわけである。そんななか、虫垂炎(盲腸)にかかり、手術のため療養が必要になった。ベッドの上での生活で、マティスは「暇すぎる……」と辟易していた。
そんな彼を見て、母親がきまぐれに「絵でも描いてみたら?」と画材を手渡す。
これが思いがけず、マティスの人生においてターニングポイントになるのだ。彼ははじめて絵を描いた時のことを「天国を見つけたみたいだった」と回想している。それほどまでに「絵」が持つ魔力に魅せられ、彼は弁護士から画家に転向した。
しかし弁護士から画家だ。将来性という観点では、あまりに差がありすぎる。教育熱心なお父さんは「は? 画家になる? あり得ないだろ」と失望した。
そりゃそうだ。父の気持ちも分かる。しかしマティスは「天国」を見つけてしまったのだから、もう止められなかった。
21歳のオールドルーキー
つまりマティスが絵を始めたのは21歳からだ。ここまで名声を得た画家としては、かなり遅い。レアケースである。
まず、マティスのすごいところはここだ。絵で生きていくためには、幼少期から描きまくっているライバルとの競争に勝つ必要がある。マティスは当然、自分がビハインドしていることを知りながら、弁護士という超安定ルートを蹴ったのだ。
例えば同年代の画家でいうと、ポスター美術で有名なロートレックは10歳ごろから本格的に絵を始めている。また、ミュシャも、中学を中退して絵を描きはじめた。好奇心モンスター・ピカソなんて10歳になるころには絵だけでなく彫刻を彫り始めている。
こうしたモンスターがうようよ存在するなか、マティスは21歳で画家を一生の道に決めた。
マティスの生涯 〜モローとの出会いと印象派・後期印象派からの影響〜
絵に魅せられたマティスは、美術学校のジュリアン・アカデミーに入学するが、反りが合わず、すぐに退学してしまう。その後、フランス美術学校の最高峰、エコール・デ・ボザールの入試を受けた。
エコール・デ・ボザールとは
Ecole nationale superieure des Beaux-Arts, Paris, Ensba, Palais des ÉtudesPublic domain, via Wikimedia Commons.
エコール・デ・ボザールは、西洋画家にとっては、とても重要な舞台だ。日本でいうと東京藝術大学のような立ち位置。つまり、フランス美術学校のトップであり、格式高い。
過去にはモネ、ドガ、ルノワール、ロダン、ダヴィッド、フラゴナールなど、西洋美術の歴史を作ったスタープレイヤーを次々に輩出した。
マティスが受けた当時は「古き良き教え」を重んじる校風で、基礎のデッサンから徹底して教えていた。
しかしマティスは、21歳からほぼ独学で絵を勉強した人だ。結局、エコール・デ・ボザールには落ちてしまう。ただ、マティスの絵に対する熱量を見て、エコール・デ・ボザールの先生だったギュスターヴ・モローが個人的に教えてくれることになった。
GustaveMoreau02Public domain, via Wikimedia Commons.
ここでモローと出会ったことが、マティスにとって大きなターニングポイントになる。
モロー先生は、エコール・デ・ボザールという「教科書に忠実に、厳格な絵を描きなさい!」という方針の学校のなかでは、かなり異端だったのだ。
神話や宗教など古典主義的なテーマを得意としている。しかし見たままや現実的な構図で描くのではない。その背後にある目に見えない「愛」「怒り」「恐怖」などの感情に重点を置いた。これを「象徴主義」といい、1900年前後に流行した手法だ。
描き方が超斬新で、ざっくりいうと「攻めている」のだ。昔ながらの教えよりも、画家のオリジナリティを尊重していた。自身もこれまでにないような斬新な描き方をしているのが特徴で、いま見てもすごくおもしろい。
『出現』 (1876, en:L'Apparition)Public domain, via Wikimedia Commons.
どれだけ異端だったかというと、モローの死後、彼の教え子たちは学校から追放されているのだ。エコール・デ・ボザール側も、モローの教育方針は認めたくなかったのだ。
そんなモローの教えを受けたからこそ、マティスは伸び伸びと絵を学べたのは間違いない。当時のマティスの絵は「ちゃんとデッサンを忠実に行う」ということを基本にしつつも、自分の表現を極めていった時期だった。
Gustave Moreau's Studio, 1894-1895Public domain, via Wikimedia Commons.
Henri Matisse, Woman Reading Woman Reading (La Liseuse), 1895, oil on board, 61.5 x 48 cm, Le Cateau-Cambrésis, Musée Matisse.Public domain, via Wikimedia Commons.
ここで「おいおい、オリジナリティを出す前にデッサンやれよ! はい100枚!」という古典主義大好きな先生から教えを受けていたら、マティスの絵は平凡なものになっていただろう。
自らの表現を探っていく無名美大生のマティスは、27歳でもう一つのキーパーソンと出会う。それがオーストリアの印象派の画家、ジョン・ピーター・ラッセルだ。
John Peter Russell (1858–1930), Australian impressionist painterPublic domain, via Wikimedia Commons.
ラッセルはもともとゴッホと親友だった。ゴッホが亡くなる少し前まで、連絡を取り続けていた人物である。ラッセルとゴッホの共通点は「色彩」だ。
ゴッホ作品の色使いは、非常に独特だ。影を緑や青で描いたり、目の覚めるようなオレンジをふんだんに使ったりしながら作品を制作した。
『日没の種まく人』1888年6月、アルル。油彩、キャンバス、64 × 80.5 cm。クレラー・ミュラー美術館[164]F 422, JH 1470。ミレーの構図に基づく。Public domain, via Wikimedia Commons.
またラッセルも色彩に関して理論的な知識を豊富に持っていた事で有名な人物だ。風景画が多く、非常に独特な色合いを用いていた。
「森の空き地」1891年。油彩、キャンバス、61 × 55.9cm。南オーストラリア美術館Public domain, via Wikimedia Commons.
マティスがラッセルのもとを訪問したのは、ゴッホが亡くなって7年後だった。
マティスはゴッホの絵に衝撃を受けるとともに、ラッセルから色彩に関する知識をたくさん教わった。彼はのちに「ラッセルは色彩の先生だった」と回想している。
実際、この時期からマティスの絵の色使いは明らかに変わってきた。それまでの重厚で落ち着いた色使いではなく、豊富な色彩を試し始めている。まさに「色彩の魔術師」の萌芽は、このタイミングで芽生えたともいえる。
Blue Pot and Lemon (1897), Hermitage Museum, St. Petersburg, RussiaPublic domain, via Wikimedia Commons.
Fruit and Coffeepot (1898), Hermitage Museum, St. Petersburg, RussiaPublic domain, via Wikimedia Commons.
マティスはゴッホの作品を皮切りに、印象派・後期印象派の作品を集めるようになる。なかでもセザンヌの作品は大のお気に入りだったらしい。セザンヌからも大きな影響を受けた。
『サント・ヴィクトワール山』1887年頃、67 × 92 cm。コートールド・ギャラリー。Public domain, via Wikimedia Commons.
セザンヌといえば「100年後に見ても理解できる作品」をつくりたかった人だ。だから彼は作品を「抽象化」して描いた。例えば「木の幹は円柱、オレンジ・リンゴは球、山は円錐」という具合だ。
新印象派、後期印象派については以下の記事でも詳しく紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第22回)~新印象派・後期印象派編~
マティスはそんな印象派・セザンヌ作品に共感し、作風を大きく変えていく。古典的かつ写実的な手法ではなく、抽象度を高めていくのだ。
Still Life with Compote, Apples and Oranges, 1899, The Cone Collection, Baltimore Museum of ArtPublic domain, via Wikimedia Commons.
ラッセルとの交流を通して、ゴッホやセザンヌから学びを得つつ、マティスは独自の画風を極めていくようになる。
ちなみに当時のマティスは、30歳前半だったが無名なのでほとんど仕事がなかった。しかも好きな絵画作品を買いまくるので超貧乏だったという。
マティスはそれでも借金しながら先人の作品を購入していた。マティスは元来、探求心がめちゃ強い。どちらかというと、オタク気質なタイプだ。しかし作品の収集は、マティスにとって作風を確立するために、必要だったのである。
マティスの生涯 ~“色彩”で感情を表現する「フォービスム」の完成~
そんなマティスは1900年に入ってから、のちに「フォービスム(野獣派)」と呼ばれる作風で絵画作品を描き始める。今でも「マティスといえばフォービズム」という印象を持つ方が多いだろう。
まさにマティスのいちばんの功績は「フォービスムという斬新すぎる作風を確立したこと」だといえる。
フォービスムの特徴は「原色を用いた大胆な色彩」と「荒々しい筆のタッチ」だ。マティスはモローの象徴主義を参考にした。つまり、伝えたいのは「目に見えない感情」だ。感情を表すために、目の覚めるような色彩を使った。
彼の作品にフォービスム的な雰囲気が表れた最初の作品は、1904年、36歳のときに発表した「豪奢、静寂、逸楽」だ。
Matisse-LuxePublic domain, via Wikimedia Commons.
この作品は新印象派のポール・シニャックの影響で描かれた点描画だ。
In the Time of Harmony. The Golden Age is not in the Past, it is in the Future, 1893-95年, oil on canvas, 310 x 410 cm, Mairie de MontreuilPublic domain, via Wikimedia Commons.
「マティスって点描派だったの?」と思われるかもしれないが違う。「このときたまたま点描にハマっていた」というだけで、マティスは作風をころころ変えていく人物だ。ピカソと同じタイプである。
この作品では、まだ「フォービスム(野獣派)」というネーミングはついていなかった。正式に「フォーヴ(野獣)」と評されたのは、1905年にパリで開かれた「第二回サロン・ドートンヌ展」だ。
このとき、マティスが展示した絵の一つが、代表作として知られる「帽子の女性」である。
Woman with a Hat (Femme au chapeau)Public domain, via Wikimedia Commons.
この作品を見て、批評家のルイ・ヴォークセルは「なんだこれは! 野獣(フォーヴ)の檻にいるドナテッロのようじゃないか」とオシャレにレビューした。
ちなみにドナテッロはルネサンス期のイタリアの彫刻家である。ルネサンスの基本姿勢は「理性的な写実主義」だ。つまり「理性が野獣のような感覚主義に食われている」という意味合いだろう。
これは決して褒め言葉ではなかった。あまりにセンセーショナル過ぎて、批評家の脳が追いついていなかったのである。「顔の皮膚が緑なわけないだろ!」みたいなツッコミが入りまくったのだ。
令和の今、この作品に対してツッコむ人はいないだろう。それはマティスのような画家が、批判を恐れずに勇気をもって発表したからだ。
マティスが活躍した時代は、ちょうど西洋美術の画壇がアップデートされるタイミングだったと思う。それまでの古典主義がだんだんと古くなった。つまり「きちんとモチーフを理性的に整理して、美しく描写すること」が正とされていた時代だ。
そのタイミングであらゆる画家がオリジナリティを極めていく。マティスはその筆頭だったといえる。これもマティスのすごいところだ。
マティスの生涯 ~代表作『ダンス』の制作~
Self-Portrait in a Striped T-shirt 1906, Statens Museum for Kunst, Copenhagen, Denmark.Public domain, via Wikimedia Commons.
「第二回サロン・ドートンヌ展」に来たロシア出身のコレクター、シチューキンの依頼を受け、1910年にマティスは「ダンス(Ⅱ)」という作品を描く。
Henri Matisse; La danse (second version) , oil on canvas, 260 x 391 cmPublic domain, via Wikimedia Commons.
これも代表的な作品だ。当時のマティスがやりたかったことがめっちゃ伝わる。空、人体、丘という、極端にまでシンプルな構図、抽象化された人体……インパクト抜群だ。
前年に描いた「ダンス(Ⅰ)」のセルフオマージュ的な作品となっている。
Henri Matisse, La danse (first version) 1909Public domain, via Wikimedia Commons.
また同時期に『音楽』という作品も制作した。
MusicPublic domain, via Wikimedia Commons.
この時期、マティスはアルジェリアに旅行をしていた。その結果、アフリカ美術特有の原始的な雰囲気が出ている。
もちろん写実的で精密な絵画は素晴らしい。素晴らしいけど「上手い!」で止まってしまい、印象には残らないことが多い。つまりインパクトはなくなるわけだ。
その点、まるで保育園児が描いたかのように抽象化して原色を配置することで、緻密な絵には表現できない「感動」を掻き立てられる。マティスはこの感動は絵画でしか表現できない、と考えた。この発見が、マティスのすごさだ。
事実「ダンス(Ⅱ)」は長く覚えているだろう。しかしまるで写真のような古典的な肖像画を記憶できる人は少ないはずだ。「ハロー・キティ」は一回見たら覚えられるけど、猫の写実画はすぐ忘れちゃう、みたいな感じに近い。
このころから市場でのマティスの評価が高まっていく。その結果、一気に人気画家の仲間入りを果たした。パリ郊外に豪邸を建てたのもこのころだ。
マティスの生涯 ~1910年代からは第一次世界大戦の影響もあり「秩序ある作風」に~
先述したが、「マティスといえばフォービスム」というイメージの方は多いと思う。しかし実際にフォービスム的な作品を作っていた期間は1905年からの3年間くらいだ。
あくまでフォービスムはマティスにとって通過点でしかない。マティスはこの後もどんどん表現方法・作風を変えながら進化していく。
そしてマティスは1910年代からはむしろ大人しめな作品をつくるようになる。例えば1912年にモロッコを訪れたあとに描かれた「金魚」という作品。
Goldfish, painted in Issy. Oil on canvas. 140cmx98cm. Located in Pushkin Museum.Public domain, via Wikimedia Commons.
アンリ・マティス《金魚》 1912年
参照:Henri Matisse, Goldfish. 1912・(プーシキン美術館Webサイト)
当時のモロッコ人は何時間も金魚を見つめて「かわいい~」なんて言いながらゆったりと時間を過ごしていたそうだ。
一方で、自国フランスは第一次世界大戦の雰囲気が漂ってきたころだ。マティスは「モロッコの余裕のある生活こそが理想だわ」と衝撃を受け、この時期に穏やかな絵画にシフトした。金魚はこの時代のマティスのモチーフとしてよく用いられている。
つまり激しい作風から、どんどん穏やかになっていくわけだ。
ただし色彩への完成は依然として鋭い。金魚の赤みがかったオレンジと、植物の青みがかった緑は「補色」の関係になっている。またお花の赤紫と周りの黄緑も補色関係だ。補色は互いの鮮やかさを引き立たせる効果を持つとされている。
作風が変化しても、こうした色彩への意識の高さは一貫している。マティスは感覚だけでなく、理論も大事にしながら色使いをしていた。
マティスの生涯 ~ニースの時代から切り絵に移行した後期から晩期~
そんななかヨーロッパでは「第一次世界大戦」が勃発。1914年から1918年まで続いた戦争により、芸術家たちは「秩序」を求めた。
第一次世界大戦と芸術家
この時期、マティス以外の芸術家たちも、穏やかな作風にシフトチェンジした。第一次世界大戦という混沌とした世界において、秩序を取り戻そうとしたわけだ。
それまで前衛的な作品を作っていたアーティストも、戦争という混沌を見て「安定した、穏やかな作品を作らなきゃ」と思ったわけだ。キュビスムをしていたピカソですら、第一次世界大戦を踏まえて新古典主義に移行している。
マティスもこの時期の作品は、フォービスムの時代に比べて写実度を高めた作品を作っており、フォービスム時代の激しさはない。この1917年~1930年ごろまでの時代を、彼が拠点の場所にちなんで「ニースの時代」と呼ぶ。
例えば『ダチョウの羽の帽子』。非常に静かな色彩であり、フォービスム時代の野生的な雰囲気はない。フォービスムの時代に比べると写実的だ
La toque de gouro (The Ostrich-Feather Hat)Public domain, via Wikimedia Commons.
そのほか『模様のある背景の装飾的人体(1925年)』『トルコ椅子にもたれるオダリスク(1927年)』なども、同様に写実的な表現に戻ってきた。
当時のマティスは部屋を文様で埋め尽くして舞台を作ったうえでモデルにポーズを取らせることもあった。あえて舞台装飾を施すことで、画面の情報量を増やしていたのだという。
しかしそんなマティスは60代後半からガンを患い、72歳で腸閉塞手術を行う。
この後は車いすとベッドでの生活となってしまった。しかし、マティスは制作を諦めるわけではない。ここがすごい。状況に合わせて「自分ができる手法」を取り入れるのである。
その手法が「切り絵」だった。切り絵に関しては、マティス自身が「線で区切る必要がないことがメリット」と公言している。色彩を追い求めたマティスにとって「絵を描く際のデッサン(線)がない」という点で切り絵は適していた。
ここにきて、より色彩に重点をおいた手法を確立するのである。マティスの切り絵作品も非常に評価が高く、2024年の「マティス 自由なフォルム(国立新美術館)」では、切り絵作品にフォーカスされた。
Blue Nudes Henri MatissePublic domain, via Wikimedia Commons.
そんなマティスの切り絵の代表作が「かたつむり」だ。亡くなる1年前に完成し、緑の隣には赤、黄色の隣には青が補色として配置されている。そして左上にはマゼンタ~紫系の類似色相が並べられていた。
MatissesnailPublic domain, via Wikimedia Commons.
こうして、1954年11月3日にマティスはニースで心臓発作のため亡くなる。しかし最期まで色彩表現にこだわりながら作品を発表し続けた。
西洋美術の「色彩」をアップデートした素晴らしき柔軟性
「アンリ・マティスは何がすごいのか」。実績でいうと「西洋美術の色彩表現を、何段階も高めた点」だろう。
これまで「人の皮膚は肌色で描くべき」という暗黙の了解があり、その常識を疑うような作品は少なかった。しかしマティスはフォービズムの時代に、その限界を軽々と超えた。最初は認められなかったが、評価を受けるようになったことで、この後の美術の表現の幅は大きく広がったのだ。
さらに、晩年まで「色」にこだわりながら作品を制作し続けたのも実績としてすごい。マティスの活動は、今でも多くのアーティストに影響を与えている。
ただ私は実績だけでなく「姿勢」に凄味を感じる。
・21歳で弁護士ルートを外れ、絵を志したこと
・フォービズムだけにとらわれず、常に手法・作風をアップデートしたこと
・晩年には切り絵というまったく違う媒体に転向したこと
この3つの行動があったからこそ、マティスは大きな実績と評価を得られたのだ。この3つに共通するのは「柔軟性」だ。物事に対して柔軟に挑む姿勢が、マティスの魅力の一つだ。
2014年6月、7月にNHKで放映された『ミュージック・ポートレイト』という番組で、現代美術家の奈良美智さんが、ダリと比較して「僕はマティスのようになりたい」とおっしゃっていた。
ダリは老いた後もルーペを使いながら自分の得意な作風にこだわって描いていた。しかしマティスはあっさりと油絵を捨て、切り絵に転向した。
こうしたマティスの魅力を知ったうえで、あらためて作品を見てみるのも楽しいだろう。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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