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STUDY

2024.9.10

【クロード・モネ】印象派とは?睡蓮とは?画家の生涯と合わせて解説

「この画家の何がすごいか」は、Webメディアや書籍が解説してくれている。

しかし、難しく、高尚に語られがちで「結局何がすごいのか」について分からないことも多々あるだろう。

そこでこの連載では、西洋画家について、あえてフランクに面白おかしく紹介していく。

今回は印象派を先導した立役者、クロード・モネについて、生涯を追いながら「何がすごいのか」について解説する。

日本でもモネの展覧会はかなり多い。印象派ファンの方はもちろん、これから美術ファンになりたい方は、ぜひこの記事を参考に美術館での体験をより深いものにしていただきたい。

モネの生涯 ~町の似顔絵師だった幼少期~

1840年、クロード・モネはパリにて誕生した。実家は食料品店を営んでおり、モネは次男だった。4歳のときに、両親の転勤に合わせてノルマンディ地域のル・アーブルという港町に引っ越し、18歳まで暮らすことになる。


ル・アーブルという町は、セーヌ川河口の大西洋岸に面した港町だ。海がすぐ近くにあり、とても自然豊かな町がモネを育てた。

Le Havre Vue Plage 14 07 2005, Public domain, via Wikimedia Commons.

そんな少年期から、モネは優等生というより「自由」な性格だった。「学校での勉強とかつまんないっしょ」という具合に、サボりまくっていた。その代わりに彼が楽しみを見いだしたのが「絵画」だった。

モネといえば「風景画」。しかし、いきなり10代から風景画に着手したわけではない。意外にも、モネは16歳のころ「似顔絵」からキャリアをスタートしたのだ。題材は「町の名士」や「著名人」で、リクエストに合わせて似顔絵を描き、お小遣いをもらっていた。


Claude Monet - Caricature of Léon Manchon.jpg , Public domain, via Wikimedia Commons.

これが、モネのすごいところの1つだ。彼自身、後年「あのまま似顔絵師を続けていてもお金持ちになったと思う」と回想している。それほど、彼の似顔絵はル・アーブルの人から大人気だった。モネの「観察眼」と「ユーモアセンス」は、16歳にしてすでに開花していた。

その後、評判は広まっていき、17歳のころには額縁屋で似顔絵が売られるレベルになる。

モネが最初に取り組んだ「カリカチュア」について

さて、ここで「え、1800年代から似顔絵ってあったんだ」と驚いた方もいるかもしれない。実は当時、誇張した似顔絵は「カリカチュア」と呼ばれ、すごく人気が高いジャンルだった。

カリカチュアは、あの観光地とかで描いてもらう似顔絵をイメージしてもらえると分かりやすいだろう。「いじりすぎだろ」というくらい、顔面のパーツを誇張して描く表現だ。

フランスでのカリカチュア人気に火をつけたのは、1830年代にシャルル・フィリポンが創刊した「シャリバリ」という日刊紙。そこで似顔絵師のオノレ・ドーミエがカリカチュアを描くようになるり、国民的人気を博すわけである。

なかでも当時のフランス王、ルイ・フィリップの頭を「梨」にした「梨頭」は大人気だった。今のSNS上のコラ画像みたいな感じだ。偉い人を面白おかしく表現するというユーモアは昔から存在する。

Le passé, le présent, l'avenir., Public domain.

ちなみに「いやいや、やりすぎだから」ってことで国から罰金・懲役刑を食らったりして、シャリバリはすぐ廃刊になる。このころからフランスでは、カリカチュアは人気を博すようになった。モネも、これらの影響を受けていたのかもしれない。

モネの生涯 ~ブーダンとの戸外制作で画家を志す~

さてさて、町の似顔絵師として評価されたモネの絵は、地元の画家にも見つかるようになる。その一人がモネより16歳年上のウジェーヌ・ブーダンだ。

Eugène Boudin, Public domain, via Wikimedia Commons.

風景画の名手で、のちに「空を描かせたらブーダンの右に出る者はいない」と言われるようになる人である。

Eugène Boudin - Beach of Trouville - Google Art Project.jpg , Public domain, via Wikimedia Commons.

当時30代のブーダンはモネに「ほう、確かにむちゃくちゃ上手いな。でも、もっと目を鍛えたほうがいい。どう? 一緒に外で油絵を描こうぜ」と、戸外制作に誘った。もうなんか、湘南のサーファーくらいコミュ力高い。

この誘いに、18歳のモネは「いや、いいっす。俺、お小遣いほしいだけなんすよ。風景画とか、しんどいんでやめときます」みたいな感じで断る。そう、モネは元来、学校をサボるタイプの自由人なのだ。

しかしブーダンも折れない。「いや絶対風景やるべきだから!ほら!行くよ!」と誘い続け、最終的にはモネが根負け。仕方なく、ル・アーヴル近郊の小さな村ルエルに出かけた。

結果として、このときの体験がモネの人生を大きく変えることになる。モネは「すげぇ、外で絵の具使って自然を描くのっておもしろい」と、風景画のおもしろさに気付いた。ここから彼は本格的に画家を志すのである。趣味を仕事にしようと思えた瞬間だったわけだ。

モネはこのとき『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品している。

View from the banks of the Lezarde, Public domain, via Wikimedia Commons.

ちなみに横で描いていたブーダンの作は以下だ。

A painting of the same scene by Eugène Boudin, Monet's mentor. c. 1857-58., Public domain, via Wikimedia Commons.

これもやっぱりすごい。まずモネの18歳とは思えないほどの写実度の高さに驚く。とても穏やかで、作品を見るだけでこちらの気持ちも落ち着くような寛大さを持つ作品だと思う。


ここからモネは本格的に画家を志し、1859年春にパリ行きを決心した。"画家あるある"だが、モネが父親に「画家になるからパリに行くね」と伝えると、父親は猛反対する。

しかしモネが似顔絵で数十万円ほど貯金していたことを知ると「え、うちの子すごいじゃん」と、パリ行きを了承したらしい。この、実力で反対意見を黙らせるスタンスもかっこいいではないか。

モネの生涯 ~アカデミー・シュイスに入学し「見たままを描くことの大切さ」を知る~

さて、ル・アーヴルを出たモネは、まずブーダンの師匠・トロワイヨンを訪ねる。

French painter Constant Troyon (1810–1865) by Eugène Louis Pirodon (1819-1882) after a photograph by Étienne Carjat (1704-1788), Public domain, via Wikimedia Commons.

トロワイヨンからは「まずルーブル美術館でひたすら模写して、ちゃんとデッサンの練習しなさい」と告げられた。

しかしモネは正直「それはだるいわ……」と思っていた。彼はこうした”アカデミックな勉強”がめちゃくちゃ嫌いなのである。つまり「まずは基本のデッサンを極めなさい」という工程が超苦手なのだ。筆者含め「わかる」とうなずいてしまう方も多いだろう。

「もっと自由に描きたいな」と、思ったモネは「アカデミー・シュイス」に入学して画家として力を付けることを決めた。これもモネのターニングポイントだ。

というのも、当時はアカデミー・シュイスは当時のフランスの美術学校のなかでは、かなりゆるゆるなのである。しかも学費も安い。先述した「基本を徹底してから応用をせよ」というアカデミックな校風ではなく、「モデルを見て自由に描きなさい」というゆるさだ。

そのため、割と革新的な画家を多く輩出している。先述したカリカチュアのオノレ・ドーミエ、近代画家の父、ポール・セザンヌなどはシュイス出身だ。変な人……もとい革新的な絵を描く人が多く生まれがちな学校である。

ここもモネのすごいところだ。モネは師匠の師匠に言われても自分の考えを曲げなかった。やりたくないことはやらない。そのうえでちゃんと「やりたいことはとことん実行する」。この姿勢は、モネの一貫しているすごさだ。 

モネはシュイスに入学するが、翌年に徴兵で1年間、アルジェリアに行っている。またその間にチフスにかかり、ル・アーヴルに戻った。この間の体験もモネにとって大きかった。

まずアルジェリア現地の風景はモネにとって衝撃だったらしい。モネ自身が「印象派の萌芽はアルジェリアの光と色彩にあった」と回想している。このころ、既に自然や光に対しての感覚が鋭敏になっていたのだろう。

またル・アーヴルではヨンキントという画家と出会う。モネが「いちばんの師匠」というほど影響を受けた人物で「印象主義の先駆者はヨンキントだ」という評価も受けている。うつ病もちのアル中だったが、ゾラやボードレールといった文学者からも称賛を得ていた人物だ。

Johan Barthold Jongkind (June 3, 1819 – February 9, 1891) was a Dutch painter and printmaker regarded as a forerunner of Impressionism who influenced Claude Monet., Public domain, via Wikimedia Commons.

モネはヨンキントやブーダンとの数カ月間の交流で「見た風景をそのまま描くことって最高だよね」という考えを深めていった。この考えは、まさに印象派のテーマとも言えるものなので、ぜひ覚えておいてほしい。

さて、そんなモネは22歳でパリに戻り、シャルル・グレールのアトリエに入った。当時、グレール先生のアトリエは「パリで最も有名」くらいの場所だった。

Gleyre - Self portrait, Public domain, via Wikimedia Commons.

モネはグレール先生のアトリエで、ルノワール、シスレー、バジルなどの画家と出会う。のちにバジルは戦争で亡くなるが、ルノワール、シスレーは一緒に印象派を牽引していくメンバーだ。

グレール先生のアトリエは、印象派の面々が「美術界に革命を起こそう」と考えるために、すごく適した場所だった。

というのも、グレール先生はいわゆる古典主義の人だ。例えばモデルを描かせるときも「見たまま描いたら、たくましくなっちゃうから美しくないよ。ちゃんと頭のなかで再構築して、ほっそりさせて描いてね」という方針だった。

しかしモネ、ルノワール、シスレーなどの生徒たちはこれに反発。「見たままをキャンバスに落とし込むのがいいんじゃねぇか。そんな理性的に再構築した絵なんて古いんだよ!」と、完全に無視していた。

もう、めちゃくちゃパンクである。ロックンロールである。精神的にモヒカン、鋲ジャン、革ブーツなのである。

じゃあなぜ、彼らはグレール先生のアトリエに来たのか。それはグレール先生が基本的に自由だったからだ。そもそも週一程度しか顔を出さないので、基本は生徒のやりたい放題だったのである。

またグレール自身が若いころお金に苦労したこともあり、授業料はなし。アトリエの家賃とモデル代の分担金しかかからなかった。

こうした奇跡的な環境下だったからこそ「頭で考えて線を再構築する理性的な古典主義なんて嫌だ。見たままを描こう」というパンクロッカーたちが集結したわけだ。その結果、みんなで戸外制作をするようになる。

もはやモネは「ちゃんとグレール先生のところに通わないと家族が仕送りしてくれないから」というスタンスで嫌々出席していた。なんかもう「留年しまくりの軽音楽部の大学生」みたいなスタイルである。

モネの生涯 ~マネへの憧れとサロンへの失望~

そんななか、1863年、モネたちはある事件に痺れてしまう。それがエドゥアール・マネの「草上の昼食事件」だ。

これは1863年に皇帝・ナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。

「サロン・ド・パリ」と「落選者展」とは

そもそも「落選者展とは何なのか」について説明しよう。

当時のパリでは「サロン・ド・パリ(通称・サロン)」という「国営の展覧会」が毎年催されていた。これが画家にとって超重要で「サロンに出展できる=一流として認められる」という構図があったわけだ。つまり「サロンの審査に受からないと、絵でメシが食えない」ということだ。

関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第17回)~アカデミーとサロン編~

そんななかサロンは古典主義的な絵を好んでいた。モネたちが嫌っていた「ちゃんと見たものを頭の中で再構成して美しく描く」という画風を評価していたわけである。

しかし1863年のサロンの審査は、むちゃくちゃ厳しかった。なんと3,000点以上の作品が落選したのだ。

これが大炎上。画家たちは「おかしいだろ!」「説明しろよ!」とマジギレした。当時の皇帝・ナポレオンは釈明のために「ちょ、ま、待って! 落とした人だけの展覧会をやるから! ちょ、いったん落ち着いてくれ」と急遽、落選者展を開いたのである。これはサロン本展以上に話題となり、大勢のブルジョワが訪れた。

この落選者展で、最もスキャンダルを呼んだのがマネの『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』だった。

Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe, Public domain, via Wikimedia Commons.

中産階級の2人の男と裸体の娼婦がピクニックをしている絵である。

ここでスキャンダルが起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」だった。当時はタブー中のタブーで、女性の裸体は「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」限定で描いてもよかったのだ。

しかしマネはあっさりとその禁忌を破ってみせた。しかも娼婦が顎に手を当てて、割と官能的なポーズでこちらを挑発している。

この作品に観衆は「マジかこれ。完全にアウトだろ」とレッドカードを切りまくり、展示した側のナポレオンも「ちょっと下品だなこれ」と苦言を呈した。マネは大炎上したわけだ。Xのトレンド1位である。

一方でこの作品にはちゃんとマネの考えもある。この作品はティツィアーノやラファエロなどのルネサンス時代の作品をモチーフにしている。当時描かれていた宗教画・神話画の裸婦を現代風にアレンジしたわけだ。手法としては中村光先生の漫画「聖☆おにいさん」に近い。

"古典主義に一石を投じた"ともいえるこの作品に、モネやルノワールは「超斬新な作品だ!これだよこれ!古典主義とかもう古いんだよ」と大興奮だった。

モネは1865~1866年にこの作品のオマージュである『草上の昼食』を制作。ちなみに、マネはモネの作品に寄せる形で1867年に『水浴』を『草上の昼食』に改題している。

Right fragment, central, Public domain, via Wikimedia Commons.

この時期、25歳のモネはサロンへの応募をはじめる。すると初出品にも関わらず、いきなり入選した。1865年には『オンフルールのセーヌ河口』などで、1866年には『緑衣の女』で見事に入選している。

『オンフルールのセーヌ河口』1865年。油彩、キャンバス、89.5 × 150.5 cm。ノートン・サイモン美術館。, Public domain, via Wikimedia Commons.

『緑衣の女』1866年。油彩、キャンバス、231 × 151 cm。ブレーメン美術館。, Public domain, via Wikimedia Commons.

この時期のモネの作品は、一般的によく知られる印象派の画風とは大きく違う。写実的で重厚感がある。

そう、モネはなんだかんだ「サロンに入選しなきゃ食っていけないこと」を理解していた。嫌がりつつも、サロン好みの画風に寄せていた時期だ。

またモネが入選できた背景には「選考委員との相性」もあった。この時期からコロー、ドービニーといった「ちょっと攻めた表現が好きな画家」が選考メンバーに入ったため、審査方針がちょっと変わってきたことも味方したのである。

ちなみに当時、マネはパリの有名人、モネは無名だが新進気鋭の新人だ。当時のパリ市民はマネとモネがごっちゃになっていたらしい。「マネさん、あの緑のスカートの作品いいっすね」「いや、あれモネだから」みたいなやり取りもあったそうだ。現代の我々と、あんまり変わらない。

しかしモネは1869年、1870年と2年連続で落選してしまう。特に仲良しのルノワールと並んで描いた『ラ・グルヌイエール』は自信作だった。当時、2人は水面に反射する太陽光の表現を追求しており、この作品も「水の質感」が見ていて気持ちいい。

「印象派的画風のスタート」ともいわれる作品で、確かに『オンフルールのセーヌ河口』などと比べると、画風が写実から離れている。

『ラ・グルヌイエール』1869年。油彩、キャンバス、74.6 × 99.7 cm。メトロポリタン美術館。, Public domain, via Wikimedia Commons.

この作品は選考委員のミレー、ドービニーなどが強烈に支持したが落ちた。ドービニーは「これがダメなら、俺もう辞めるわ」と審査員を辞任している。

モネの生涯 ~印象派展の開催~

2度の落選で、モネは「もう評価してくれないなら、サロンには出品しないわ」と、サロンに見切りをつけた。

私生活では三十路で1870年にパートナーのカミーユと結婚。このころは画商もついて、絵が売れるようになっており、若干経済的余裕を手にしていた。

しかしこのまま、安定ルートに進むわけではない。サロンに対する不満は消えていなかった。「サロンの判断で画家の道が閉ざされること」「また現代的な表現が許容されないこと」に疑念があったわけだ。

ここもモネのすごいところだ。ある程度の収入を得て落ち着くわけではない。自分を含め、フランスの芸術全体に対するアップデートを考える。モネのエネルギーは半端じゃない。

そこでピサロ、ドガ、ルノワールなどに相談。「もう俺らで展覧会を催しちゃおうぜ」と考えるようになる。そこで生まれたのが「印象派展」だ。

モネたちは事前に出資会社を設立し、運営資金を保持するためのルールを決めたうえで、1874年に第一回印象派展を開催した。

これもすごいが、なんとサロンの日程と被せたのである。明確に「サロンに対して蜂起するぜ」という意志を感じる。やはりモネはパンクロッカーだ。

モネはこの展覧会で、代表作の一つ『印象:日の出』を出品した。


関連記事:モネ『印象、日の出』はどんな絵?時代背景と作品の特徴を解説

Monet - Impression, Sunrise, Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし「第一回印象派展」の結果はボロボロだった。1カ月でサロンは40万人の観客を集めたが、印象派展には3,500人程度しか来なかった。しかも、そのほとんどが「なんかモネとかルノワールが変な事やってるっぽいから観にいこうぜ」と冷やかしに来た。

冒頭で紹介した日刊紙「シャリバリ」には、批評家が「『印象:日の出』のタイトル通り、"印象"だけで実体のないフワッとした作品だった。さすがにサボりすぎだよね」みたいな記事を書いた。皮肉にも、このことから「印象派」と呼ばれるようになる。

しかしモネは、そんな失敗にもめげない。客が来ず、コストだけがかさむので生活はだんだん苦しくなるが、マネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催した。

開催していくなかで、印象派は確実に評価を受けるようになっていった。もともとフランスでは「古典主義をアップデートしよう」という思想は存在しており、印象派はそんな世論の追い風を受けたのだ。

例えば、1876年の第2回印象派展では奥さんのカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名で、彼は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上も持っていたとされる。

『ラ・ジャポネーズ』1876年。油彩、キャンバス、231.8 × 142.3 cm。ボストン美術館。第2回印象派展出品(W387)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

1877年の第3回印象派展では『サン=ラザール駅』の連作などを出品。特にこの連作は批評家から高評価を得ている。同じ構図を何枚も描くことで、その瞬間ごとの光の変化や時間経過を表そうとしていた。

La Gare Saint-Lazare - Claude Monet, Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし評価は高まるも、印象派展の売れ行きは伸びなかった。1870年代後半は、モネの人生で最もしんどかった時期だ。

絵は売れず、パトロンは破産した。モネは妻がいるのにパトロンの奥さん・アリスと恋に落ち、彼女の6人の連れ子を自宅に引き取る。「妻・カミーユ」「後妻・アリス」「双方の子ども8人」の11人で同居するというヤバい生活に突入した。そのせいもあってか、妻・カミーユは体調を崩すようになった。

印象派のメンバーも同じで、ついにルノワールは1878年に世間の評価を高めるためにサロンに応募し入選する。ドガはルノワールに「権威に屈服すんなよ!」とガチギレ、印象派のメンバーは分裂していった。

1879年の第4回印象派展のころ、モネは「印象派展をやってるから、悪評が広まって絵が売れないんじゃないか」とさえ考えていた。そんななかカミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作している。

『死の床のカミーユ』1879年。油彩、キャンバス、90 × 68 cm。オルセー美術館(W543)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

一方で親友・ルノワールは連続でサロン入選を果たし、経済的にも大成功した。それを見てモネは1880年、ついにサロンに出品。入選を果たすと、第5回印象派展への出品を断った。これで実質、印象派は解体されることになる。

モネが印象派と決別した1880年から1881年に、彼は「個展の成功」「画商との契約締結」などで経済的に安定した。世知辛いが、印象派を離れてから、モネは再度経済的成功を手にしたわけだ。

簡単に書いたが、モネもルノワールも、やろうと思ったらサロンで入選する絵をいつでも描けるのがすごい。

モネの生涯 ~瞬間ごとに色彩・光の違いを描いた連作時代~

そんなモネは40代後半も順調だった。ファン・ゴッホの弟である画商・テオドルスとも取引をしていた時期だ。

1889年、同い年のオーギュスト・ロダンと2人展を開催。馴染みの画商ではなく、あえて競売にかけるなど、40代後半のモネは意外とビジネスマンっぽい一面も見せるようになる。

Auguste Rodin 1893 Nadar, Public domain, via Wikimedia Commons.

そんなモネは40代後半、50代と「連作」を描くようになる。これは葛飾北斎の『富嶽三十六景』の影響を受けているともいわれる。最初の連作が1890年から開始した「積みわら」シリーズ。25点つくった。

『積みわら、夏の終わり』1890 - 91年。油彩、キャンバス、60 × 100.5 cm。シカゴ美術館(W1269)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

また1891年からは「ポプラ並木」のシリーズを23点制作した。

『エプト河岸のポプラ並木』1891年。油彩、キャンバス、100.3 × 65.2 cm。フィラデルフィア美術館(W1298)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

また「ルーアン大聖堂シリーズ」は33作にも及ぶ。

『ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光』1894年。油彩、キャンバス、ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)(W1324)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

「連作」は、モネが表現したかった「光・色彩の移ろい」を表現するのにぴったりだった。同じ構図でも、季節、時間が違えば、光の当たり方が変わる。これにより色彩も変わる。

モネが何十年も掲げていたテーマは「その瞬間のモチーフを見たまま絵に落とし込むこと」だ。そのうえで連作は、とても分かりやすい。

ざっくりいうと、朝は青白く、昼は黄色みがかかり、夕方になればオレンジに、夜になるにつれて光は失われていく。同じモチーフでも我々が受ける印象は大きく変わるわけだ。

モネがどれくらい連作にこだわっていたかが分かるエピソードがある。ポプラ並木の連作について、制作途中で競売にかけられ伐採が決まったそうだ。しかしモネは「入札額以上を私が払うから切らないでくれ」と懇願し、無事制作が完了したらしい。

「同じ構図を何枚も描いて、いったい何を表現したいのか」と疑問を感じる方もいるかもしれない。しかし光や色彩の変化を表現したいモネにとって、連作はとても重要なのだ。

モネの生涯 ~睡蓮シリーズの制作~

さて、そんなモネが最後にとりかかったのが代名詞ともいえる「睡蓮シリーズ」である。53歳からシリーズの制作をはじめた。

モネはジヴェルニーの自宅の庭に池と太鼓橋をつくり、そこにたくさんの睡蓮を植えた。これは通称「水の庭」と呼ばれる。日本風なのが特徴。モネはそれほどまでに日本が好きだったのだ。

ジヴェルニーの「水の庭」。中央に「日本の橋」。, Public domain, via Wikimedia Commons.

睡蓮シリーズは1898年から1900年の第1シリーズと、それ以降の第2シリーズに分けられる。共通しているのは、最後まで「光の変化」を描きたかったことだ。睡蓮をはじめとした植物や、水に映る景色は、光の変化を表現するうえでうってつけのモチーフだった。

第1シリーズでは太鼓橋と睡蓮、しだれ柳がよく描かれているのが特徴だ。構図は同じだが光の変化で色合いが大きく違う。

『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』1899年。89.2 × 93.3 cm。フィラデルフィア美術館。, Public domain, via Wikimedia Commons.

『睡蓮の池、バラ色の調和』1900年。油彩、キャンバス、90 × 100.5 cm。オルセー美術館。, Public domain, via Wikimedia Commons.

1901年にモネは池の拡張工事をおこなう。それ以降は太鼓橋はあまり描かれず、水面を大きく描くようになった。これが第2シリーズの特徴だ。見ながら「これはどの季節の、どの時間帯だろう」と想像してみるのも楽しい。

『睡蓮』1905年。油彩、キャンバス、89.5 × 100.3 cm。ボストン美術館(W1671)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

『睡蓮』1907年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。DIC川村記念美術館(W1706)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

『睡蓮の池』1907年。油彩、キャンバス、100 × 73 cm。アーティゾン美術館(W1715)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

晩年期のモネは水面の光と、睡蓮の景色に取りつかれていたらしく、1914年には睡蓮を描くために、高さ15メートルの巨大なアトリエを建てている。

制作中の「睡蓮」の前に立つモネ(1920 - 26年)。大装飾画のために建てた高さ15メートルの巨大なアトリエであった。, Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし老いにしたがって後期は視力が低下し始め、絵の具の色も判別できなくなっていった。せっかく作った作品も、モネ自身が納得いかないと破壊していたらしく、あまり作品が残っていない。

しかし最期までモネは睡蓮を描き続け、1926年、86歳で息を引き取った。最期の仕事はパリのオランジュリー美術館に収納されている。巨大な睡蓮の絵だ。

オランジュリー美術館の「睡蓮」の部屋。, Public domain, via Wikimedia Commons.

汎用的な「木」ではなく、その瞬間の木を描いたモネの“目”

モネの運動は、美術史にとって大きな革命だ。それまでのサロン至上主義の流れを明らかに変えた。そしてこの後に後期印象派たちが登場し、その後に象徴主義、キュビスム、野獣派など、さらに斬新な表現が認められはじめ、現代アートにつながる。

関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第22回)~新印象派・後期印象派編~
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第23回)~象徴主義編~

当時から、だんだんとサロンの保守的な動きが見直され始めていたが、モネら印象派たちがその変化を加速させたのは間違いない。実績でいうと、ここが「モネのすごさ」だ。

まず胆力がすごい。「評価されずに困窮しても、展覧会を開き続ける」。これはなかなかできないことだ。またなにより、自分の描きたい絵を落とし込むための手法を考えたこともすごい。

風景に対して、その瞬間の光・色彩を見たまま落とし込む。頭では分かっているが、実際に絵にするのは難しい。

しかしモネは筆触分割・抽象化などの技法を駆使して実現させた。こうした技法を確立したうえで、何年間も続けたのは「やりたいことを追求する」というモネ自身の性格も起因していることだろう。

そんなモネの集大成が睡蓮シリーズだ。日本だと、神奈川県・ポーラ美術館や、東京都・国立西洋美術館をはじめ、各地に所蔵されている。気になる方は、ぜひ実際に見て「モネが描いた光の移ろい」を体感してみてほしい。

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ジュウ・ショ

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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

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