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2024.8.5
ミケランジェロ・ブオナローティとは|生涯とともにピエタ、最後の審判などの代表作、すごさを紹介
「この画家の何がすごいか」は、Webメディア、書籍が解説してくれている。
しかし、難しく、高尚に語られがちで「結局何がすごいのか」について分からないことも多々あるだろう。
そこでこの連載では、西洋画家について、あえてフランクに面白おかしく紹介していく。
今回、取り上げるのは「神のごとき」とまで称賛されたルネサンスの巨人・ミケランジェロだ。彼によって、美術的な意味でのルネサンスは終わったともいえる。でも意外と「なにがすごいのか」ってのは知られていない。
そこで今回は、彼の生涯を追いながら「何がすごいのか」を紹介していこう。
目次
ミケランジェロの生涯 〜幼少期から石を彫っていた〜
ミケランジェロは1475年に、イタリアのトスカーナ州・カプレーゼで誕生した。ただ生後数か月でカプレーゼからフィレンツェに引っ越す。
フィレンツェといえば、ルネサンスの中心地だ。当時は貿易が盛んで、メディチ家が銀行業で儲けまくっていた場所である。
ちなみにメディチ家が力をつけ出したのはミケランジェロが生まれる100年くらい前。彼が生まれたときには、既にメディチ家が激強の時代で、ルネサンスも花開いていた。ミケランジェロはルネサンスの真っ只なかで育ったわけだ。
ルネサンスについては以下の記事で詳しく紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第8回) ~初期ルネサンス編~
フィレンツェの風景Public domain, via Wikimedia Commons.
ミケランジェロの母親はとっても病弱な人で、彼が6歳のときに亡くなっている。ミケランジェロは乳母に育てられた。父親は地域を取り締まる行政の人だったが、フィレンツェに引っ越してからは農場のほか、大理石の採石場を経営していた。
そう、お察しの通り、ミケランジェロは幼少期からノミとハンマーで石を削りまくっていたのだ。現代の我々がレゴブロックで遊んでいる一方、ミケランジェロは彫刻をつくっていたわけだ。超サラブレッドなのである。
ここでミケランジェロは「パパ! 大理石彫るの楽しいね!」と無邪気にも彫刻に目覚めるわけだ。環境ってほんとに大事である。
そんなミケランジェロは14歳で学校に入り「人文主義」を学ぶ。人文主義とは「ヒューマニズム」のこと。ざっくりいうと「神を信じるより、人間が大事っしょ」という本質的な考え方を指す。ルネサンスを象徴するような考え方だ。
「運転で事故りたくないから神に祈る」ってのが、それまでの神学的な教えだとしたら「安全運転しよう」ってのが、ルネサンスの人文主義だ。「ちゃんと本質を見ようね」という教えである。
そんな人文主義の授業を受けてたミケランジェロくんは、実はかなり不真面目で、授業そっちのけで絵ばっかり描いていたそうだ。幼い頃から造形に親しんでいたこともあって、このころには美術に興味しんしんだった。
そんなミケランジェロは、13歳のときにドメニコ・ギルランダイオという画家に弟子入りする。
Pala degli innocenti, ghirlandaio, autoritrattoPublic domain, via Wikimedia Commons.
彼は意外と日本では名が知られていませんが、超スタープレイヤーだ。当時のルネサンスの中心・フィレンツェで最大の工房を持っていたのがギルランダイオだった。
そこでミケランジェロは絵画を学び始めるわけである。ミケランジェロは彫刻と絵画を両方同時に習得していったわけだ。
ルネサンス期の美術家には「学校に通う」という慣習がなかった……。というか学校がなかった。だから、こうして工房に弟子入りすることで、技術を磨き、発注元を確保していたのである。
そんな15歳のときに作ったレリーフ(浮き彫り)作品が『聖母の階段』だ。
『階段の聖母』(1491年頃) カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)Public domain, via Wikimedia Commons.
また16歳で『ケンタウロスの戦い』も作っている。この2点はミケランジェロの作品でも最初に確認されているものだ。
『ケンタウロスの戦い』(1492年頃) カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)Public domain, via Wikimedia Commons.
いや、すさまじい。10代で作ったとは思えないくらい精巧である。夏休みの自由研究でこんな作品が提出されたらビビってしまう。
『ケンタウロスの戦い』の緻密さもすごいが、個人的には『聖母の階段』の衣服の襞(ひだ)がすごい。未熟ではあるが、遠近感が表現されている。
ミケランジェロの生涯 〜メディチ家のお抱えからローマに行くまで〜
そんな16歳のミケランジェロは、まだ芸術でメシを食う域には辿り着いていなかったので、メディチ家の宮廷で警備のバイトをしていた。
そんななか、17歳で雇用主のロレンツォ・デ・メディチが死去。それで、失業しちゃう。普通だったら、実家に帰るか、タウンワークでも読むだろう。ところがどっこい、なんとミケランジェロはこの時期に人体解剖を始めている。
ちなみにミケランジェロより20個くらい年上のダヴィンチも人体解剖しまくっていた。人体を彫刻で掘ったり、描いたりするうえでこの時期は「本質を見よう」という思考に至っていたわけだ。
なのでルネサンスにおいて「人体解剖」は、そこまで変なことではない。ただ間違いなく17歳でやることではない。この若いミケランジェロの探求心、ストイックさはすごい。
そんな人体解剖を経て、18歳で彫ったとされるのが「キリスト磔刑像」である。
Santo Spirito, sagrestia, crocifisso di michelangeloPublic domain, via Wikimedia Commons.
ただ、ぶっちゃけミケランジェロかどうかの真偽がわかってない。「ミケランジェロかな? いやでも木製やしな〜」みたいな感じでふわっとしている作品だ。
その後、フィレンツェでは大雪が降り、メディチ家から「雪像作ってくれ」と発注がきたことで、再びメディチ家に戻った。冷静に考えると、まだ18歳なのにメディチ家から発注を受けるほど高い評価を得ていたわけだ。
しかしその後すぐに、メディチ家がフィレンツェから追放される事件があり、ミケランジェロは巻き込まれないためにボローニャに移動した。
ボローニャでも、仕事は順調だった。20歳のミケランジェロに教会から依頼が来ている。パーマの表現がとんでもない。髪がもう脳みたいになっている。
Saint Dominic's ark (Bologna)Public domain, via Wikimedia Commons.
その後、メディチ家事件が落ち着いて、ミケランジェロはフィレンツェに戻る。しかしメディチに取って代わった、質素倹約がモットーのサヴォナローラさんからの依頼は一切なかった。
きっと「ミケランジェロ? 強欲なメディチの犬だろ? ないない。さーて家計簿つけますかー」みたいな感じだったんだろう。
しかしミケランジェロは、力を失ったメディチ家からの依頼は受けていた。このころ『洗礼者ヨハネ』と『眠るキューピッド』の2作品を作っている。しかし残念ながら両方とも戦争の際に砕け散ったらしく、今では復元したものしかない。
このときにちょっとした事件が起こる。依頼主のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコはこのうち「眠るキューピッド」をローマで売るつもりだった。
Lorenzo il popolanoPublic domain, via Wikimedia Commons.
それでミケランジェロに「これ古代ローマの遺産っぽくアレンジしてくれない? そっちのほうが高く売れるからさ」と持ちかけるわけだ。落ち目の元豪族なので、ちょっとお金に意地汚いのである。
まだ若いミケランジェロもクライアントの発注に「いいですよ」と軽々しく請けてしまい、彫刻に特殊な加工を施す。その後、ローマのリアリオ枢機卿に「古代ローマの彫刻が発掘されました」と、200ドゥカートで売った。
正確な価値は不明だが、当時は「年収20ドゥカートで一家が暮らしていけた」という手記がある。今でいうと4000万円~5000万円くらいだろうか。
しかし騙されたリアリオ枢機卿は、後から詐欺に気づくわけだ。それで「おい、ミケランジェロをローマに呼べ」と部下に命令する。20歳のミケランジェロは「やっば……絶対怒られる……殺されるかも」と震えながらローマに出向いた。
しかし、リアリオはミケランジェロを見て「いやぁ、君の彫刻はすごい。ぜひローマに来てほしい」と言ったそうだ。詐欺以上にミケランジェロの才能に惚れたのである。
こうしてミケランジェロは21歳でローマに行く。早速、リアリオの発注で「バッカス像」を作った。
Bacchus_(Michelangelo)Public domain, via Wikimedia Commons.
ちなみに、ミケランジェロはあえて酩酊している様を表現したが、リアリオは「これじゃない! もっとかっこいいのが欲しかったんだよ」と受け取りを拒否したという。
ミケランジェロの生涯 〜『ピエタ』と『ダビデ像』の制作〜
21歳にしてローマでも認められたミケランジェロは、フランスの枢機卿からの依頼も受けるようになる。フランス枢機卿は、バッカスの制作中に偶然作品を見て「え、うますぎん? フランスにも作ってよ」と依頼したそうだ。
このフランス枢機卿の依頼内容は「イエスの遺体を抱いて悲しむマリア」というもの。この構図は「ピエタ」という。今や誰もが知っている大傑作「ピエタ」は、ミケランジェロが弱冠23歳ごろにつくった作品だ。
ピエタ (ミケランジェロ) Public domain, via Wikimedia Commons.
完全無比な人間の骨格。布のひだ。そして感情表現のすごさ。キリストの無念さとマリアの悲しみが伝わってくる。ミケランジェロが唯一サインをしたことでも知られており、相当な自信があった作品だろう。
関連記事:実は聖母マリアは巨大!?ミケランジェロの『ピエタ』の豆知識3つ
ちなみにピエタをつくるために、ミケランジェロは自らローマからカッラーラまで大理石を採掘して運んだといわれている。簡単に書いたが、ローマからカッラーラまでは400km弱ある。
ミケランジェロは、ここがすごいのだ。ちょっともう常人を遥かに超えるストイックさを持つ人物なのである。あり得ないほどワーカホリックだ。だからこそ若いうちから、とんでもない数の実績を積み重ねてこれたのだろう。
そんなミケランジェロはピエタを作り終えてから、フィレンツェに戻る。というか、ローマで権力争いが起こり、戻らざるを得なかった。
ミケランジェロは、フィレンツェでもう一つ大きな仕事をしている。それが「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のダビデ像」だ。
「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の建築」は、フィレンツェにとって大規模すぎるプロジェクトだった。そもそも、この教会の建築は1296年から140年もかかっている。
それでとりあえず大聖堂自体は完成したものの、追加で「12体の像を飾る」って計画を立てるのである。その後、1464年に「とりあえずダビデ像を作ろう」としたが、上手く進まず、25年も大理石が置きっぱなしになってしまった。
そんなフィレンツェを挙げての大プロジェクトに、弱冠26歳のミケランジェロが任命されるわけである。ダ・ヴィンチなどにも声がかかっていたが、最終的にミケランジェロに決まった。当時のイタリアで、すでにミケランジェロがものすごく高い評価を受けていたことがわかる。
ミケランジェロは3年をかけて、代表作の一つ「ダビデ像」を完成させた。「集中したいから」という理由で、作業中はずっとパーテーションのなかにいて、誰にも制作風景を見せなかったそうだ。
ダビデ像_(ミケランジェロ)Public domain, via Wikimedia Commons.
高さはなんと517cm、幅が199cm。あまり知られていないが、おそろしく巨大な像だ。とにかく、この作品によってミケランジェロの地位は完全に不動のものになったといえる。まだ30歳で、彫刻家としてはトップの地位まで上り詰めたのだ。
ミケランジェロの生涯 〜ダヴィンチとのバトルと、のちのマニエリスム絵画的表現の始まり〜
1504年、ダビデを完成させたばかりのミケランジェロ(30歳)のもとにフィレンツェ共和国から「ヴェッキオ宮殿の大会議室に壁画を描いてくれ〜」と依頼があった。
もうこのころになると彫像だけでなく、絵のお願いもガンガンくる。当時は「芸術家」という括りで見られていたとはいえ、やっぱこれはすごい。
それで「カッシーナの戦い」を描くわけだが、なんと対面で同じ依頼を受けていたのがレオナルド・ダ・ヴィンチだった。このとき両者は初めて同時にプロジェクトを手掛けることになる。ただ「ダ・ヴィンチは描いてなかった」というニュースも一部あるので、ぶっちゃけ真偽は不明だ。
ミケランジェロとダ・ヴィンチの作風の違い
ミケランジェロとダ・ヴィンチは何かとライバル関係にされる間柄だ。せっかくなので、ここで両者の作風の違いを簡単に解説する。
まずダ・ヴィンチは、基本的に左脳型というか、現実主義のリアリストだ。「自分で見たものしか信じねぇぞ」というスタンスである。
例えば天使ガブリエルも、鳥類の羽を付ける。
受胎告知_(レオナルド・ダ・ヴィンチ)Public domain, via Wikimedia Commons.
だから人体構造についても、ものすごい数を人体解剖して理解している。人体を描くのも、すごく精密で正確だ。
一方でミケランジェロは人体のデッサンはもちろんすごく高度ですが「現実のまま」というより「理想形」を描く人だ。少しロマン主義というか、現実よりかっこよく描くのが基本的なスタンスだといえる。
なので登場人物は基本的にムッキムキだ。
ミケランジェロによる「カッシナの戦い」下絵(サンガッロによる模写)Public domain, via Wikimedia Commons.
さて、話を戻そう。結局なんやかんやあって、ヴェッキオ宮殿の壁画は2つとも未完のまま終わる。そのため、今は模写でしか確認できない。
1504年からミケランジェロは絵画としての代表作の一つ『聖家族(ドニトンド)』を制作。「奥さんの結婚祝い」という素敵なオーダーをもとに描かれた。
聖家族_(ミケランジェロ)Public domain, via Wikimedia Commons.
ミケランジェロの絵画の特徴が、ものすごく出ている作品だ。ミケランジェロは人の体を「ひねったり曲げたりするのが大好きな人」である。この作品でも、キリストを受け取るためにマリアの腰は大きく捻られている。またキリストの膝が曲がっている。
また、もう全員がとにかくムッキムキ。シックスパック祭り。「4番キレてるキレてる!」「2番もう腹筋でわさび削れるわい!」みたいな声が聞こえてきそうだ。
これはルネサンス絵画の特徴からは逸脱していた。当時のルネサンスでは思想を反映して「写実的な絵」が流行っていたわけだ。しかしミケランジェロは、現実よりちょっとオーバーな表現で、リアル以上の人体の美しさを描いているのである。
少し先の話になるが、この理想的な表現は「マニエリスム絵画」と呼ばれ、ルネサンス以降の画壇でブームになる。マニエリスムについては、後述しよう。
ミケランジェロの生涯 ~『システィーナ礼拝堂天井画』を制作
ミケランジェロは、30歳ごろに彼のキャリア史上最大といってもいいオファーを受ける。それが「ローマ教皇・ユリウス2世の墓」の建設だ。
しかしプロジェクトはなかなか進まず、代わりに教皇から依頼されたのが、彼の代表作の1つでもある「システィーナ礼拝堂天井画」の制作。33歳〜37歳ごろの作品である。
ミケランジェロ・ブオナローティPublic domain, via Wikimedia Commons.
ミケランジェロは最初、このプロジェクトを嫌がったが、結局着手することになった。
この作品では、500平方メートルの天井に300人以上の人物画を描いている。このめちゃくちゃ複雑なプランは、ミケランジェロ自身が提案した。依頼者の案は「12使徒を描いてくれ」だったが、自身でより難しい構図にしたそうだ。ミケランジェロのストイックな性格が出まくっている。
「天井に描く」ということで、側壁に板をくっつけて、その上に乗って描いたそうだ。なんとその足場から自分で設計している。あらためて、ミケランジェロはワーカホリック過ぎる。「なんでも自分でやりたい症候群」だ。
この天井画は以下の3つのテーマに分かれている。
・神による地球の創造
・神による人類の創造と神の恵みからの堕落
・ノアとその家族に代表される人類の状態
なかでも有名な場面は「アダムの創造」だろう。ダイナミックな一枚だ。
『アダムの創造』(1508年 - 1512年) システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)Public domain, via Wikimedia Commons.
いや見事だ。二人とも体をひねっており、神々しい。彫刻のような身体が美しい。これ以上ないくらいの完成度だ。
『システィーナ礼拝堂天井画』に関しては、以下の記事もぜひ参考にしてほしい。
関連記事:ミケランジェロ“以外”も必見!システィーナ礼拝堂のディープな美術解説
関連記事:ミケランジェロ初めてのフレスコ画!?システィーナ礼拝堂『創世記』見どころ紹介
ミケランジェロにとって30代は黄金期だ。こんな大作を次々に作りまくっていたあと、38歳からサン・ロレンツォ聖堂のファサード(外観部分)と装飾の現場監督を任されている。ついに建築まで、手を伸ばし始めた。リリー・フランキー並みのマルチクリエイターっぷりである。
サン・ロレンツォ聖堂 Public domain, via Wikimedia Commons.
ミケランジェロは、このプロジェクトの設計・スケジューリングに3年くらいかけた。その後、またしても自分でカッラーラの採石場に行っている。
ただ、結果的に「石の運び方」を巡って、依頼主の教皇・レオ10世とミケランジェロが大げんかし、頓挫してしまう。ちなみに今日まで500年以上、サン・ロレンツォ大聖堂にはファサードができていない。
一方で、この時期にミケランジェロが住んでいたフィレンツェは、大忙しだった。メディチ家が追放されたり戻ってきたり、ルターの「宗教改革」が起きたりしていた時期だ。
ミケランジェロは追放されないように上手いこと立ち回っていた。最終的にミケランジェロは反メディチ派のスタンスでいるなか、メディチ家が勝利する。
「裏切者として処罰されるのでは?」と思うかもしれないが「ミケランジェロのような天才を罰するわけにはいかない」というまさかの理由で許されている。
こんなゴタゴタがあったんで、1530年前後のミケランジェロの作品は少ない。この時期は、メディチ家のもとでずーっと礼拝堂をつくっていた。
ミケランジェロの生涯 ~『最後の審判』を制作から晩年まで
そんななか、1533年、還暦間近のミケランジェロに教皇・クレメンス6世は「システィーナ礼拝堂の祭壇の壁に『最後の審判』を描いてくれ」と依頼するんです。
この依頼についても、ミケランジェロは「いやもうええわ」と、乗り気ではなかった。しかし依頼主のクレメンス6世が死去し、後を引き継いだパウルス3世が熱望したため、しぶしぶ依頼を受けたのである。こうして代表作『最後の審判』は約5年かけて完成した。
最後の審判 Public domain, via Wikimedia Commons.
サイズは縦1,370cm、横1,200cmと、超巨大な作品だ。そのなかに400名以上の人物が描かれている。
「何がすごいか」って、フレスコ画なのだ。フレスコ画の制作手法は、先に漆喰を塗って、漆喰が乾かないうちに顔料を塗るもの。顔料が漆喰でカバーされるので長く保存できるが、逆にいうと「描いている途中で漆喰が乾いたらNG」なのである。だから超ハイスピードで描かないといけない。
キリストが死者の審判をして、天国(左)と地獄(右)を決めている名シーンですね。真ん中でポーズを決めているのはキリスト。一般的にキリストってガリガリに描かれるが、ムキムキに描かれているのは、ミケランジェロならではのこだわりだろう。
最後の審判 Public domain, via Wikimedia Commons.
ちなみに、キリストの右下でダラーンと皮が垂れてる奴はミケランジェロの自画像といわれている。ワーカホリックすぎて疲れてしまったのだろうか。60歳を超えた自分を自嘲しているのかもしれない。
最後の審判 Public domain, via Wikimedia Commons.
他にも『最後の審判』について見どころがあるので、以下の記事も読んでいただきたい。
関連記事:【ミケランジェロ】システィーナ礼拝堂『最後の審判』解説&見どころ紹介
そして、この大作を完成させたあと、ミケランジェロは建築の仕事が多くなる。1546年、71歳のときにはサン・ピエトロ大聖堂改築工事の設計、ドーム部分のデザインを任されている。
ミケランジェロが設計したサン・ピエトロ大聖堂のドーム。Public domain, via Wikimedia Commons.
この工事もずーっと40年くらい続いてたものですが、ミケランジェロはそこに終止符を打つわけだ。
こうして、ミケランジェロは最後の最後まで仕事を受け続ける。
ただ一方で「誰からの発注も受けていない個人的な作品」として、80代になってからひっそりと「ピエタ」を掘り続けていた。
ピエタは先述した通り、処刑され十字架から下ろされたキリストを母のマリアが抱くシーンだ。慈悲とか悲哀みたいな意味が込められている。
Pietà Rondanini - Michelangelovia Wikimedia Commons
死ぬ前までノミをぶつけていた「ロンダニーニのピエタ」だ。80歳を超え、もう筋力も衰えていき、ノミも重かっただろう。それでもキリストの死を掘り続けた。また、ミケランジェロは詩を何作も書いているが、彼は晩期に「老いていく自らのみすぼらしさ」をこれでもかと自嘲っぽく書いている。
なかでも印象的な一文が以下だ。
私が愛した芸術よ、我が良き日の太陽よ、名声よ、賞讃よ、──私が流行らせた歌よ、いまでは私を苦役と貧困と老いと孤独に放り出すばかり」
引用:ミケランジェロの詩、訳者:ジョン・フレデリック・ニムス
ルネサンスで最も働き、輝いた画家は、その思い出に取り憑かれ、孤独に耐えきれなくなっていたのだ。ここまで取り組んできた芸術も、それで得た名声も、最後にはすべて「無」になった。
「神の如き」と言われ続けてきた彼は、最後に自分をキリストに見立てて「受難(苦痛)」の象徴であるピエタを描き続けたともいえる。
そんなミケランジェロは1564年、88歳で亡くなった。最後に「やっと何でも上手く表現できそうになってきたと感じる。そのときに死ぬのが残念だ」と言い遺している。
ミケランジェロは"精神的な筋肉量"が尋常じゃない
「ミケランジェロのすごさ」は、まず仕事のレベルの高さだ。まず若いうちから彫刻も絵画も抜群に技術力が高かった。そのため、すぐにフィレンツェやローマの仕事が舞い込んできた。ここがすごい。
そんなミケランジェロの芸術は「マニエリスム」と呼ばれネクストスタンダードになる。ミケランジェロが芸術の教科書(イタリア語でマニエラ)という意味で、マニエリスムと名付けられた。一人の人間が長く続く美術様式を作り上げたのは、唯一無二の出来事だろう。
マニエリスムについては以下の記事で紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第13回)~マニエリスム編~
スタンダードになった理由は、間違いなく「量をこなしたから」だ。とんでもない数の仕事をしている。当時、イタリアの国民も芸術家も、常にミケランジェロの作品を見ながら生活していただろう。その結果、ミケランジェロの様式が染みついたのだと思っている。
常人がこんなストイックに仕事をしたら、確実に鬱病まっしぐらだ。ミケランジェロはとにかくまじめで自分に厳しい人間なので、ほとんど他人を信用していない。よくいうとストイックだが、悪くいうと「毎日徹夜で仕事しまくる上司」みたいな人である。
「半年くらいでいいよ」という発注も「いや、俺1人で3年描くからやらせてくれ」と、勝手に難易度をガンガン上げていく。石も自分で採取して切る。弟子が「あの……手伝いましょうか?」とか言いにくるが「いや、俺1人でやるから。お前に技術を盗まれてたまるか」と譲らない。
そんな彼が残した名言の一つに「最大の危機は、目標が高すぎて失敗することではなく、低すぎる目標を達成することだ」というものがある。また「天才とは永遠の忍耐」という、とんでもない言葉を残している。
とにかく努力努力の人だ。これを一言で書くと「精神的な筋肉量」が人とは違うのである。限界点があまりに高すぎるからこそ、「ピエタ」や「最後の審判」など、高度過ぎる作品を生み出せたのだろう。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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