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2024.8.10
フェルメール(画家)の代表作と生涯|43年の短い生涯で描いた作品解説と評価
「この画家の何がすごいか」は、Webメディア、書籍が解説してくれている。
しかし、難しく、高尚に語られがちで「結局何がすごいのか」について分からないことも多々あるだろう。
そこでこの連載では、西洋画家について、あえてフランクに面白おかしく紹介していく。
今回は「オランダ黄金期」を代表する画家の一人、ヨハネス・フェルメールをピックアップする。16世紀末から18世紀半ばまで長く続くバロック期の中でもスタープレイヤーである。
『牛乳を注ぐ女』『真珠の耳飾りの少女』などの名作で知られ、日本でもすごく人気が高い。しかしめちゃくちゃ寡作の画家で、現存する作品は37点しかない。
では、なぜフェルメールはここまで高い評価を受けているのか。どんな人なのか。いったい何がすごいのか。彼が43年の短い生涯で描いた作品と一緒に生涯を解説していこう。
目次
フェルメールの生い立ち 〜富裕層が増えまくったオランダ黄金期に生まれる〜
実はフェルメールの生涯は2010年代まで、ほとんど明かされていなかった。死後、フェルメールの名前はまったく浸透せず、彼の作品であっても「他の画家が描いた」といわれていたくらいだ。ちなみに、今でも謎が多い画家の一人である。
さて、前置きはこのくらいにして彼の生涯について解説していこう。
フェルメールは 1632年にオランダ(当時: ネーデルラント連邦共和国)のデルフトという町に生まれる。生まれてすぐに、キリスト教の洗礼を受けた。
父親は絹織物職人だ。しかし画廊を経営していた。絵だけでなく織物も売っており、しかも居酒屋・宿としても使えるという、なんだか摩訶不思議な店だったという。
そんなフェルメールが生まれた当時のオランダは「黄金時代」だ。このポイントは、フェルメールが描いたモチーフにも関わる部分なので詳しく解説しよう。
オランダ全体が裕福になり「写実主義」が好まれた時代
当時のオランダは貿易が大当たりして、国全体がとんでもなく裕福だった。フェルメールが生まれて10年後、オランダと日本(長崎・出島)で貿易が始まる。これは日本史の教科書で読んだ方も多かろう。アムステルダムは、当時「世界一の港町」と呼ばれた。
「チューリップ」がまだ高価だった時代で、ヨーロッパ中のブルジョワがオランダのチューリップを求めた、いわゆる「チューリップ・バブル」と呼ばれる時代だ。とにかくオランダ中がウハウハだった。
そんな情勢が、画家の表現にも影響を与える。それまでのパトロンは、主に「教会」か「君主(王様)」「とんでもない金持ち」だけだった。
だから画家の絵も、「キリスト教の名シーン集」とか「王様・金持ち市民のモデル立ち」だけ。見たままを描くというより、ちょっと誇張して、カッコつけて描くのがウケた。
これがいわゆる「バロック絵画」の特徴だ。ダイナミックに描くほどウケる。今風に言うと「泣かせにきてるよね、これ」みたいな感じだ。
Caravaggio - Taking of Christ - Dublin
しかし、貿易で潤ったオランダは、国全体が金持ちになる。つまり「市民」がパトロンになっていくわけである。
市民が自宅に絵を飾る風習ができたのだ。すると一転して「写実的な絵画」が好まれるようになるのである。
想像してほしい。家の玄関にバロックのダイナミックな絵はちょっと似合わない。もっと落ち着いた絵のほうがマッチする。それで写実的な表現がウケるようになった。
また「似てないじゃん! 描き直してよ」と言われてしまう問題もあった。市民からの発注に応えるためにも、リアリティたっぷりに描くことが求められたわけだ。
オランダ・バロック美術の歴史については以下の記事で詳しく紹介している。ぜひこちらもご覧いただきたい。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第15回)~オランダ・バロック美術編~
ルネサンスとの共通点
ちなみに近場のイタリアでは、こうした動きが300年ほど前に起きていた。ルネサンス時代である。ルネサンスが起きた理由はさまざまだが、そのなかの一つが「イタリア・フィレンツェ(港町)が貿易で栄えたこと」だった。
これにより教会ではなく市民が力を持つようになり、写実主義が栄えた。レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ブルネレスキなどが、写実的な表現を見出して、スタートした時期だったのである。
ルネサンス時代とオランダ黄金期は、めちゃくちゃ共通点が多い。
フェルメールの弟子入りと結婚 〜15歳で修行をはじめ、結婚するも貧乏生活に突入〜
さて、そんなウハウハな時代に生まれたフェルメールは15歳で画家に弟子入りする。当時はまだ「学校に入って、卒業して、仕事をもらって~」という文化はなかった。徒弟性だったわけだ。
ちなみに、師匠はオランダの画家でレンブラントの一番弟子としても知られる、カレル・ファブリティウスといわれている(確証はない)。
Carel FabritiusPublic domain, via Wikimedia Commons.
そんなフェルメールは21歳でお金持ちの娘・カタリーナと結婚する。前年に父親を失くしており、店も含め遺産はあったが、当時は画家としての収入はない状態。相手方のお母さんは「誰が、こんな貧乏画家と結婚させるもんですか!」と猛反対したが、結局のところ二人は結ばれた。
なんと子どもは11人!
フェルメールとカタリーナの間には、なんと15人の子どもが生まれたと言われている。そのうち4人は幼くして亡くなってしまったが、11人の子と暮らした。21歳で結婚後、フェルメールは43歳で亡くなる。いやはや、とんでもないハイペースだ。
その年にデルフトのギルド(聖ルカ画家組合)の親方に選ばれている。親方になると弟子を取れる。つまり、このころには同業の画家たちからの評価はされていた。
当時のフェルメールは意外にも宗教画や神話画をよく描いていた。我々が知るフェルメールは、「日常の光景を描いた絵(風俗画)」の画家だろう。しかしその前の20代前半ごろには、こうした作品を描いていた。
Jesus at the home of Martha and Mary Public domain, via Wikimedia Commons.
Vermeer - Diana en haar nimfenPublic domain, via Wikimedia Commons.
しかしこのころのフェルメールは、まだ一枚も絵が売れていない当時は25歳になっても妻の実家に居候していた。実家には妻・義母、ニートの義弟との4人生活で、さぞ気まずかったに違いない。
フェルメールの名作① 〜パトロンからの援助と『牛乳を注ぐ女』の制作〜
そんなフェルメールは23歳で、亡くなった父親の店・メヘレンを継ぎ、経営を始めている。彼は店を経営しつつ、アトリエとしても使っていた。子育てや家事をしつつ、その合間に絵を描いていたようだ。
相変わらず、絵は売れなかったが、彼はメヘレンの収入と、超金持ちの義母のおかげで、ラピスラズリを入手できた。
結果としてラピスラズリを原料とする「ウルトラマリン」はフェルメールの代名詞として、死後の評価を高めるようになる。ちなみに当時、ラピスラズリは純金と同じくらい高価だったというから、相当な額を絵につぎ込んでいたことになる。
絵画とラピスラズリとの関係については、以下の記事でも詳しく紹介している。
関連記事:青は高貴な色だった?超高級顔料の原料『ラピスラズリ』の歴史と特徴を徹底解説!
そんな彼に追い風が吹いたのは25歳ごろだ。若くして、醸造業者で投資家でもあったピーテル・ファン・ライフェンというパトロンができたのだ。彼は生涯にわたってフェルメールの金銭面を援助し、作品を20点も持つことになる。
フェルメールが寡作でも生きていけたのは、パトロンの存在が大きいだろう。必死に画廊に絵を持ち込まなくても、安定した暮らしを実現できたのだ。
そんななか、フェルメールは宗教画・神話画から、だんだんと風俗画にシフトチェンジしていく。
Vermeer young women sleepingPublic domain, via Wikimedia Commons.
風俗画に転向したのは、冒頭で記載した通り、やはり当時は風俗画が流行っていたからだと見なされている。
そんななか、強みでもあるウルトラマリンを駆使して描かれたのが、名作『牛乳を注ぐ女』だ。フェルメールが26、7歳ごろの作品である。
Johannes Vermeer - De melkmeid
こうして見ると、やはりエプロンの青がとても目を惹く。またこのほかにも、この絵にはフェルメールならではの工夫が詰まっている。
例えばよく見ると「白い斑点」がたくさん描かれていることに気付くだろう。これは「ポワンティエ」というフェルメールが発明した技だ。画面にアクセントを加えるとともに、ハイライトの効果もある。光の反射を印象的に描くために用いていた。
『牛乳を注ぐ女』に関しては以下の記事でも詳しく紹介している。
関連記事:フェルメールの絵はなぜ人気があるのか?絵にしかけられたマジックを読み解く
ちなみに、この画面向かって左に小窓を設置し、自然光を演出する描き方は、このときフェルメールがハマっていた得意技だ。ほぼ同時期に『窓辺で手紙を読む女』『士官と笑う女』『紳士とワインを飲む女』などの作品を制作している。
Jan Vermeer van Delft - Brieflezend meisje bij het venster (ca. 1657-59)Public domain, via Wikimedia Commons.
Johannes Vermeer - De Soldaat en het Lachende Meisje
個人的には「小窓」というのがおもしろい。画面上部には光が当たり、逆に下部はあえて影を作っている。画面下部に重厚感が生まれ、反対に光に照らされる人の表情が明るく見える。このコントラストがとても美しい。
フェルメールは「光の魔術師」ともいわれるが、まさにその通りだ。同じく「光」にこだわって制作したバロック時代の画家にカラヴァッジョやレンブラントがいる。
『フランス・バニング・コック隊長の市警団』、油彩、1642年、アムステルダム国立博物館。
『聖マタイの召命』(1599年 - 1600年) サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)
この2人はバロック時代の画家なので、かなりダイナミックに光を用いている。2人に比べると、フェルメールの光の表現は「自然」だ。動的ではなく静的だからこそ、日常的な生活の一部を写真で切り取ったような仕上がりになった。
フェルメールは「私は光に興味があり、絵が持つ物語には興味がない」という言葉を残している。寓意などは、わざとらし過ぎて、できなかったのだろう。脱・バロック絵画の姿勢で、こちらも安らかに見られる。
このバランス感覚が、フェルメールのすごさだ。また、フェルメールがのちの画壇に与えたインパクトだっただろう。彼の作品が多くの人から愛されている理由ともいえる。
フェルメールが用いていた「カメラ・オブスキュラ」
フェルメールは実際、今でいうカメラと同じ原理で作られた「カメラ・オブスキュラ」という装置を用いて制作をしていたといわれる。
手持ち式カメラ・オブスクラの使い方Public domain, via Wikimedia Commons.
カメラ・オブスキュラは、現在のカメラと違ってピンボケしてしまうのが普通だったようだ。だからこそ、どこか抽象的な仕上がりになったといわれている。
また先述したポワンティエも、ピンボケした際に移る白い光の斑点を参考にしたといわれる。
フェルメールの名作② 〜『デルフト眺望』『真珠の耳飾りの少女』の制作〜
こうして順風満帆に作品を制作していくフェルメールは、20代後半に『デルフト眺望』という風景画を制作している。風景画は、彼の生涯でも2点しかない。めちゃめちゃ珍しい作品だ。
これもカメラ・オブスキュラを用いて制作されたといわれる作品だ。ちなみに、パトロンであるピーテル・ファン・ライフェンの死後、彼のコレクションが競売にかけられた際、最も高い値を付けた作品でもある。
その後、30代に入り、フェルメールは聖ルカ組合の理事に選出された。これは史上最年少のことだ。つまり、彼はこのころにはオランダの画家のなかでも一目置かれる存在だったといえる。
このあと、30代後半に聖ルカ組合の理事に再選されている。理事を2回以上務めることは、当時のオランダでもめちゃめちゃ珍しいことだったそうだ。フェルメールの人生はまだまだ研究されている途中だが、間違いなく生前から評価されていた画家だった。
このころ、フェルメールは珍しく「寓意画」を描いている。
Jan Vermeer - The Art of Painting
寓意画とは「宗教や神話のキャラクターを登場させつつも、物語には言及しない作品」を指す。そのキャラクターの持つ意味などをほのめかすことで、作品のテーマを訴求するものだ。
この『絵画芸術』という作品でモデルを務めるのは歴史の女神・クリオだといわれている。また戦争や、宗教に関するメッセージも込められた作品だ。フェルメールはこの作品を最期まで手元に持っていたそうだ。
そのほか、30代以降も風俗画の制作は続けていた。
真珠の首飾りの女Public domain, via Wikimedia Commons.
そんななか、いまフェルメール作品で最も高い人気を誇る作品『真珠の耳飾りの少女』を制作した。フェルメールが33、34歳ごろの作品だ。
Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665)Public domain, via Wikimedia Commons.
画面にはポワンティエが見られ、ウルトラマリンを用いたブルーのターバンが印象的な作品である。正式名称は『真珠の耳飾りの少女』だが、ターバンが印象的過ぎて『青いターバンの少女』とも呼ばれる。オランダ風のファッションではないため、東洋との貿易で流入したものだろう。
構図がとにかく美しい。シンプルで記憶に残る。余計なものはなく、若々しい少女が少し微笑んでこちらを振り返っている。「誰の発注で描いたのか」「モデルは誰なのか」などの情報はまったくない、ミステリアスな作品だ。
『真珠の耳飾りの少女』については、以下の記事でも詳しく紹介している。
関連記事:フェルメール『真珠の耳飾りの女』の特徴は?見どころをわかりやすく解説
フェルメールの死因 〜英蘭戦争の勃発、不遇の時代、そして急死〜
こうして30代も子育てに制作にと、順調に生活していたフェルメールだが、1670年代、フェルメールが40代あたりになると、状況が一変してしまう。
その原因となったのが、「第三次英蘭戦争(仏蘭戦争)」だ。フランス軍がオランダに攻めてきたことで、オランダは大打撃を受けてしまうのだ。ウハウハだった時代が嘘のように、経済が悪化していく。
また同じ時期にオランダでは新進気鋭の画家が台頭するようになり、フェルメールの作品は売れなくなってしまうのである。しかもパトロンとして長くフェルメールを援助してきたファン・ライフェンも亡くなってしまった。
オランダの画家は17世紀半と比べて、17世紀末には4分の1にまで減少していたというから、フェルメールだけでなく画家全体にとって不遇の時代が訪れたのだ。
この時期、フェルメールは"小窓の構図"の作品のほか、楽器の演奏をする女性などを描いている。
A young Woman seated at the Virginals, 25,5 x 20 cm
しかし、戦争が始まってから、フェルメールの作品は1つも売れなかった。それは画商としても同じだ。戦争のなか、オランダの人々は絵を買う余裕なんてなかったのである。
だんだんと、困窮していくなか、フェルメールは「どう11人の子どもの面倒を見るか」を考えていた。
1675年の夏、フェルメールはアムステルダムで、義母の財産を担保にお金を借りた。しかし借りたはいいものの、返す方法がわからない。そんななか、彼は多大なストレスのため急死してしまった。43年の短い生涯だった。
独自の技法で、後世の画家に大きな影響を与えたフェルメール
フェルメールは死後すぐの段階では、高い評価を受けていた。先述したように『デルフト眺望』をはじめ、競売では高額の値が付けられた。
しかし、その後100年ほど忘れられてしまう。その背景には世間の流行りがあった。フェルメールの時代は写実主義が流行っていたが、その後、美術アカデミーが力を発揮し、理想化した古典主義的な表現が主な潮流になってしまうのだ。
つまりフェルメールの写実主義は「古い表現」となってしまうわけである。この時代の遷移については以下の記事で紹介している。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第17回)~アカデミーとサロン編~
しかしその後、バルビゾン派の登場により、また写実主義が息を吹き返し、印象派たちの活躍につながる。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第20回)~バルビゾン派編~
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第21回)~印象派編~
こうして写実主義が見直されていくなかで、フェルメールはまた評価を受けるようになった。
なかでも1900年代で活躍したサルバドール・ダリはフェルメールの熱狂的なファンで有名だ。彼は自著のなかで「過去の画家を勝手に採点する」という炎上しそうな遊びをしていたが、フェルメールは最高得点だった。「アトリエで絵を描くフェルメールを10分でも観察できるなら右腕を失くしてもいい」とまで言っている。
なかでも『レースを編む女』がお気に入りだったらしい。
Johannes Vermeer - The lacemaker (c.1669-1671)
ダリは"不思議"を生かすために、写実性にこだわっていた。そんなダリだからこそハマったのだろう。
しかしフェルメールの写実主義の精度は段違いだ。本当に日常のワンシーンを切り取ったかのような描写。それでいて美しさを兼ね備えている。この唯一無二の表現が実現した背景には、先述した独特な技法や素材があるのだろう。
こうした技法はもちろん後世にも引き継がれ、現在の画家も用いている。「写実画」というジャンルを一つも二つも推し進めたのが、フェルメールのすごいところだ。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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