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STUDY

2024.8.19

アルフレッド・シスレーとは|代表作、どんな人だったのかを生涯とともに解説

「この画家の何がすごいか」は、Webメディア、書籍が解説してくれている。

しかし、難しく、高尚に語られがちで「結局何がすごいのか」について分からないことも多々あるだろう。

そこでこの連載では、西洋画家について、あえてフランクに面白おかしく紹介していく。

今回は印象派の画家、アルフレッド・シスレーについて解説する。「印象派のなかでシスレーが好き」といえる方は、本当に絵が好きなんだろうと思う。それくらい、シスレーといえば「良くも悪くも癖のない絵」で有名だ。教科書のような、美しい絵を描く画家である。

では、そんなシスレーは何がすごいのか、作品のどこが見どころなのか。生涯を解説しつつ、紹介していこう。

シスレーの生涯 ~実業家から画家への転向~

アルフレッド・シスレーは、1839年10月にパリで誕生した。しかし父母ともにイギリス人だ。父親は絹産業の実業家。母親も教養が高く、特に音楽を好む貴婦人だった。

そんなハイソ(死語)な家庭の次男として生まれたシスレーは、父親から「お前も実業家になりなさい」と、質の高い教育を受けながら育った。そして18歳で実業家になるべく、ロンドンの大学に入学する。

しかし親元を離れたシスレーは大学より美術が好みだったようで、頻繁に美術館に通うようになる。東大、京大の学生が自堕落になって留年しちゃう……みたいな感じだろうか。

当時、ロンドンでは風景画が世間に認められ始めた時期だった。その先駆けとなったのがウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルである。

『海の漁師たち』1796年、テート・ブリテン所蔵Public domain, via Wikimedia Commons.

ウォータールー橋の開通式(ホワイトホール階段からの眺め、1817年6月18日)Public domain, via Wikimedia Commons.

西洋美術において風景画が流行した理由
では当時、18歳のシスレーがなぜ風景画にハマったのかをざっくりと掘り下げてみよう。

そもそも西洋美術史において「風景画」は長く虐げられてきたジャンルだ。美術の題材として「歴史画」や「宗教画」「神話画」などはヒエラルキー上位に位置していた。長い間、国や教会がパトロンだったこともあって「崇高なものを描け」というのが常識だったわけだ。

関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第18回)~新古典主義編~

しかしそんななか「ロマン主義」という「自分自身の感性を信じて描くぜ」みたいな動きが強くなっていく。


関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第19回)~ロマン主義編~

この流れのなかで、風景画もだんだん評価されていったわけだ。そんななか風景画の名手として登場したのが、新古典主義寄りのターナーと、ロマン主義よりのコンスタブルだった。

なかでもコンスタブルの素朴な絵は、その後に登場するバルビゾン派に影響を与え、戸外制作という描き方がちょっとずつ浸透するきっかけにもなった。

関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第20回)~バルビゾン派編~

シスレーが18歳(1857、58年)のころ、コンスタブルやターナーは既に亡くなっているが、彼らの作品は当時の美術館にも飾られていたのだ。ちなみに1857年といえば、バルビゾン派のミレーが描いた傑作『落穂拾い』の制作年である。

Jean-François Millet - Gleaners - Google Art Project 2Public domain, via Wikimedia Commons.

つまり、まだまだメジャーではないものの「だんだんと風景画が増えてきました!」という時期に、シスレーは見事にハマってしまったわけだ。インテリ大学生がサブカルにハマってヴィレヴァンとかまんだらけに入り浸る感じである。

シスレーの生涯 ~印象派メンバーとの出会い~

そんなシスレーは21歳で実業家の勉強を辞めて、画家を志した。父親はどんな顔をしただろうか。詳しくは分からないが、後年シスレーに資金援助もしているので、まぁ応援してくれたのだろう。

シスレーは22歳でスイスの画家、シャルル・グレールのアトリエで学び始める。「シャルル・グレールのアトリエ」に関しては以下の記事で詳しく解説している。簡単に言うと、学費はほぼゼロで、先生もあんまり教えに来ない、というゆるさが魅力のアトリエだった。

関連記事:ビカミング・クロード・モネ~風景画家への道




ここでシスレーは人生最大の出会いを果たす。モネ、ルノワールをはじめ、この後に印象派として一緒に活動していく画家たちに出会ったのだ。ちなみにモネは1歳年上、ルノワールは2歳年上である。ほぼ同学年だ。
関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第21回)~印象派編~



当時はまだまだ「古き良き絵画を描きなさい」という時代だ。先述した歴史画・宗教画・神話画が国から認められていた。サロン・ド・パリ(通称・サロン)という国営の展覧会でも、まだまだ基本に忠実な格式高い表現、いわゆる「古典主義」的な考え方が認められていたのである。

そんななか、シスレー、モネ、ルノワールたちは、ぶっちゃけ「おもしろくねぇなぁ」と思っていた。シャルル・グレール先生も古典主義寄りの教え方で、たまに来ては「ほら! モデルを見たまま描くのはダメだよ。もっと美しく描きなさい」とレクチャーしていた。

しかし生徒側の彼らは「見たまま描くのがいいんだろうが!」とキレかかっていたのである。特にモネはその気持ちが強く、シスレーも感化されていった。しかしサロンに出品しても容赦なく落とされる、という日々が26歳ごろまで続いた。

Allee de chataigniers - Alfred Sisley Public domain, via Wikimedia Commons.

ただし売れなかった時期もシスレーには「親」という強力な味方がいたので、他の画家と比べて資金に苦労はしていなかったようだ。実際、25歳でアパートを借りた際には、ルノワールを居候として迎え入れていたりする。

そんななか、27歳でサロンに初入選を果たす。非常に素朴で均整の取れた作品だ。しかしシスレーの作品は安心して見られる。技術力・発想力ともに素晴らしく、奇をてらったこともしない。

Alfred Sisley - Rue de village à Marlotte, 1866 Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし、そんな素朴さゆえなのか、サロンに入選するも話題にはならず、パトロンが付くこともなかった。

この時期にシスレーは花屋の娘・マリーと結婚。最終的には3人の子をもうけた。

シスレーの生涯 ~父の死去と貧乏生活~

シスレーは20代後半まで、父親の援助を受けつつ売れない画家生活を続けていた。29歳ごろからはカフェ・ゲルボワに顔を出すようになる。

マネ『カフェにて』(リトグラフ)Public domain, via Wikimedia Commons.

カフェ・ゲルボワは印象派たちにとって、すごく重要な場所だ。もともとはマネの行きつけのバーだったが、マネを慕うモネ、ルノワール、ピサロなどが集まるようになり、日々「自分たちの描きたい絵画を認めてもらうにはどうしたらいいか」を話し合っていた。

シスレーも顔を出していたそうだが、とても内気な性格だったので、あまり馴染めなかったようだ。

Vue de Montmartre, depuis la Cité des Fleurs aux BatignollesPublic domain, via Wikimedia Commons.

そんな「ザ・売れない画家生活」を続けるなか、31歳のころに普仏戦争が勃発する。シスレー自身に危険が及ぶことはなかったが、戦争の影響で父親が破産してしまい、翌年に亡くなってしまう。

Alfred Sisley 001Public domain, via Wikimedia Commons.

この事件で父親の援助がなくなったのは、シスレーにとって大きな出来事だった。妻も子どももいたシスレーは、何とかして絵で生計を立てる必要性にかられた。ピサロに画商・デュラン=リュエルを紹介してもらった。

ちなみにデュラン=リュエルは5,000点以上の印象派絵画を取り扱っていた印象派の大きな後援者だった。印象派画家たちが成功を収めた背景には、間違いなく彼の功績がある。

Pierre-Auguste RenoirPublic domain, via Wikimedia Commons.

しかし絵はあまり売れなかった。この時期から、シスレーの貧乏生活が始まってしまい、彼はこの後の人生において、基本的に困窮のなかで過ごすことになった。

シスレーの生涯 ~印象派展への参加~

そんななか、1874年にモネやルノワールが主導して「第一回印象派展」が開催された。これは当時の画壇で圧倒的な影響力を持っていたサロンに対抗して印象派たちが独自に企画した展覧会だ。シスレーも「じゃあ俺も……」という感じで、5点の作品を出品した。

「第一回印象派展」には、モネやルノワール、セザンヌ、ドガといった画家が作品を出品したが、見比べるとシスレーの作品の安心感を体感できるだろう。

以下は順にモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌの作品だ。

『印象、日の出』(1872) クロード・モネ Public domain, via Wikimedia Commons.

『桟敷席』(1874) ピエール=オーギュスト・ルノワールPublic domain, via Wikimedia Commons.

『洗濯女』(1870-1872)エドガー・ドガPublic domain, via Wikimedia Commons.

『モデルヌ・オランピア』(1873-74) ポール・セザンヌPublic domain, via Wikimedia Commons.

一方で、シスレーの同時期の作品は以下である。

Bridge at Hampton Court (1874) ヴァルラフ・リヒャルツ美術館 Public domain, via Wikimedia Commons.

こうして見ると、シスレーの作品はかなり教科書的だ。癖がなく、非常に素朴で見やすい。これがシスレー作品の魅力である。また、シスレーのすごいところでもあるだろう。周りの画家に変な影響を受けず、たんたんと自分の描きたい風景画を追い求めていた。

さて、印象派展は第一回こそ、ブルジョワ層の嘲笑の的となり、あまり振るわなかった。しかし、2回、3回と継続するにつれて、炎上商法的ではあるが、だんだんとモネ、ルノワール、ドガなどの名は知れ渡っていく。

しかし癖のないシスレーの作品は、あまり話題になることもなかった。真面目過ぎて埋もれてしまったのだろう。シスレーは内気で真面目なのだ。

そんななか、シスレーは第四回~六回まで印象派展への出品を辞めてしまう。当時は他のグループ展への参加を希望していたようだ。

In this panoramic view of the Seine River valley near the town of St.-Germain-en-Laye Alfred_SisleyPublic domain, via Wikimedia Commons.

シスレーの生涯 ~最期までブレずに風景画を描く~

印象派展から決別したシスレーは、40歳で久々にサロンに出品する。印象派たちは約束事として「サロンには出品しないことを取り決めていたが、後半は世間からの評価を受けられなかったため、だんだんとサロンに出品するようになっていた。

しかしシスレーの作品はサロンからも認められなかった。40代からは経済的な困窮のため、家族とパリ南東部のモレ=シュル=ロワンに移住した。ここで余生を送ることになる。

Moret-sur-Loing, Alfred Sisley, 1888Public domain, via Wikimedia Commons.

44歳のころ、画商のデュラン=リュエルの誘いで個展を開催。本当はグループ展を開催したかったそうだ。この個展もさっぱりお客さんが来ず、大失敗に終わってしまう。

しかしそんななかでも、めげずに作品を作り続けた。しかも、印象派のテイストをまったく崩さずに風景画を描き続けている。シスレーのブレなさは素晴らしい。

Women Going to the Woods, 1886, Artizon Museum, TokyoPublic domain, via Wikimedia Commons.

この時期にジャポニズムブームが到来。旧友のモネやルノワールなど、印象派の面々はみな影響を受けた。シスレーもこの時期、扇に絵を描くバイトをしていたらしいが、まったくジャポニズムにハマらなかった。

そりゃそうだ。シスレーは、革新的な作品をリリースしたいわけではなく、あくまで風景画を描きたいのである。しかし印象派のなかでもジャポニズムにハマらなかったのはシスレーだけではなかろうか。

49歳のころには、ピサロ、ルノワールとの三人展を開催。このときは、そこそこ成功を収めた。

A Bend in the Loing, 1892, Museu Nacional d'Art de Catalunya, BarcelonaPublic domain, via Wikimedia Commons.

この3人展の際には専属の画商もつき、ついに50代で花開くか?と思われた。しかしその後もあまり絵が売れることはなかった。58歳には大回顧展を開催するも、そこにもあまり客は訪れず、最期は59歳で亡くなった。

シスレーは"印象派的な作品"を貫き通した風景画のお手本

Pierre-Auguste RenoirPublic domain, via Wikimedia Commons.

「印象派」というと、風景画の専門画家と思う方もいるかもしれない。しかし、印象派の面々は、決してのほほんとした"古き良き風景画"にこだわり続けたわけではない。

例えばモネは基本的に光や水の表現を突き詰めた人だ。また途中でジャポニズムにハマり、歌川広重を取り入れているし、後期は積み藁や睡蓮などの連作を描き続けた。

ルノワールは、もちろん風景画でスタートしたが、どちらかというと都市や人物画に興味が移っていった。だんだんと人物画が増えている。

ドガも風景画から始まったが、どちらかというと室内画のほうが多い。他の印象派の画家と比べると古典主義的で画面が暗い。

つまり「印象派」とひとくくりにされがちだが、みんな風景画から脱却していったのだ。その試行錯誤のなかで、世間的な評価を受ける表現を見つけていき、経済的に成功した。

一方でシスレーは、ずーっとシンプルで素朴な風景画を描き続けた画家だ。一貫して風景画を描き続けたことがシスレーのすごい部分である。


ぶっちゃけ、印象派のなかでは影が薄い。作品も癖がなく、レパートリーも少ない。正直いって、ちょっと地味だ。しかしそれがシスレー作品の良さだといえる。いつ見ても、非常に心安らぐ絵なのだ。

まさに風景画だけを描き続けたからこそのいぶし銀な作品だといえる。彼が活躍した1800年代はもちろん、2020年代も、きっと未来も家の玄関に飾っておきたくなるような、素敵すぎる作品だ。

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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

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